無線・警察・ディズニーリゾート、それから直島。60歳で起業した直島アートユニット・佐々木広武さん

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公開日 2025.11.17

警察からエンターテイメント業界へ、そして高校生の頃から興味を抱いていたアートの島に移住し転職。更には起業。エンジニアとして多くの経験を積んできた佐々木広武さんは「達成感とかやりがいが次の仕事の大きなエネルギーになりました」と語ります。

 

一見つながりがないようにも見える佐々木さんの職業選び、達成感はどうすれば得られるのか、成功のカギを握ったものは何だったのか?

 

4足の草鞋を履くまでに至った佐々木さんから、職業選択のヒントをいただきます!

現在の佐々木さん

★佐々木 広武(ささき ひろむ)さん

「直島の文化的資源を町民で掘り起こし、次の時代に伝えていく場をつくりたい」と仲間とともに株式会社直島アートユニットを起業。60代後半にさしかかりながらも、離島の環境整備に精力的に取り組む。

 

 

★横山さん

型にとらわれない生き方を模索中の大学生。「働くこと」に興味津々で、就職や起業以外にも大学卒業後の選択肢はないのか考えている。

 

4足の草鞋を履くエンジニア

佐々木さんの現在のお仕事について教えていただけますか?

The Naoshima Plan 「水」で案内をする佐々木さん

妻と一緒に合同会社直島アートユニット、島の仲間と共同で株式会社直島アートユニットという2つの会社を経営していて、仕事としては大きな柱が4つあります。

 

4つもですか?

 

はい。1つ目は株式会社ベネッセホールディングスと公益財団法人福武財団が展開するアート活動「ベネッセアートサイト直島」のメンテナンスアドバイザーとして、美術施設の施設管理を担当しています。

 

 

メンテナンスアドバイザーというのは、美術品や美術館に不具合が発生した際に、状態を確認して原因を究明し、適切な修復や修理方法を仕様化、最適な協力会社を選定して引き合いと施工の手助けをする仕事です。不具合の発生を予防するためのメンテナンス計画の立案や予算作成などもお手伝いしています。建築や設備だけでなく、ランドスケープと呼ばれる植栽や景観の維持管理計画にも参加しています。

 

2つ目は直島町が所有する「ふるさと海の家つつじ荘」という町営施設の運営です。指定管理者から委託を受けて宿泊施設と食堂施設の営業を行っています。島民に愛される歴史の長い施設ですから、スタッフ一同緊張感をもって業務にあたっています。

 

3つ目は建築家の三分一 博志(さんぶいち ひろし)さんが、直島の古民家を改修して作ったアート施設The Naoshima Plan 「水」の運営です。島のお年寄りと一緒に、春から秋に運営しています。最近は若いスタッフも増えて、島を訪れるゲストとの交流拠点となっています。

 

 

4つ目が2025年5月31日にオープンした直島新美術館に併設されている「& CAFE(アンドカフェ)」の営業です。アジアの作家さんによる現代アートをテーマにした美術館ですので、直島がアジアに繋がるようなメニューをスタッフみんなで開発しています。

 

「& CAFE(アンドカフェ)」でエプロン姿の佐々木さんに会えるかも

 

お忙しそうです。

 

そうですね、どの業務も土日祝日や繁忙期が一番忙しい仕事になります。あと、これらの本業のほかにも、町民の一人としてのボランティア活動にもいくつか参加しています。

 

まだあるんですか?!

 

法務省から拝命した「人権擁護委員」、直島町から拝命した「文化財保護審議会委員」と住んでいる地区の「区長」、6年ぐらい前に発足した市民団体「直島塾」の役員にもなっています。あまり増やさないようにしないと、丁寧な仕事ができないかもしれませんね。

 

すごい!佐々木さん大活躍という感じですね。

「直島塾」の活動で島内のゴミ拾い(後列右から4人目が佐々木さん)

 

好奇心に導かれて歩んだ佐々木さんのこれまで

科学への興味がエンジニアへの第1歩に

アマチュア無線と共に歳を重ねる

佐々木さんの経歴についてお聞きしたいのですが、エンジニアになるきっかけは何だったんですか?

 

小学生の頃のプラモデル作りから始まっているように思います。たとえば船のプラモデルを作ったときは、電池とモーターでプロペラが回る仕組みを見て「どうして見えない電気でこんなふうに動くんだろうか?」と興味津々でした。それから「月や地球はどんな構造なのだろう?」など科学のさまざま分野に興味が広がっていったと思います。

 

中学1年生の時にハム(アマチュア無線)の国家資格である無線従事者免許証を取得して、高校卒業まで「無線部」で活動していました。今ではインターネットやスマホなど「通信」の方法はすっかり変わりましたが、自分で電波が出せるアマチュア無線はとても面白く、この趣味は55年たった今でも続いています。つい最近も、ケニアのアマチュア無線家と交信したばかりなんですよ。もちろん、インターネットや国際電話を経由してではなく、庭に建てたアンテナから出る電波で直接、地球の裏側と交信したんです。すごいでしょう。

 

ケニアの全く知らない方と話すのですよね?すごい、ロマンを感じます。無線の趣味から、どのようにお仕事への道がつながっていったのでしょう?

 

私は電気通信大学の夜間部に通うことにして、昼は大学の斡旋でKDDの研究所で臨時職員として研究員補助のアルバイトをすることになったのですが、これが人生の方向性を決めるきっかけになりました。

 

このアルバイトで初めて大型のコンピュータに出会い、研究員の方から「これ作ってみて」と簡単なプログラミングをさせてもらったのです。ここで一気に情報通信の知識を得ることができエンジニアの道につながりました。

 

※ 国際電信電話株式会社。「au」で知られる現在のKDDIの前身。

 

仕事の流儀を学んだ警察職員時代

大学卒業後はどんな就職先を選んだのですか?

 

大学在学中に取得した総合無線通信士の免許を活かせる宇宙開発事業団NASDA(現・宇宙航空研究開発機構JAXA)へのチャレンジも検討しましたが、どうやら勤務先が南太平洋の離島(クリスマス島)になるかもということもあり、警察を選びました。結局、今は島に住んでますが。(笑)

 

え!?なぜ警察に?

 

警察の中には「警察庁通信局」(現 情報通信局)というところがあって、警察官ではなくて技術職員の仕事があったんです。当時の警察の教育環境は一般企業よりもずっと充実していて、入庁後には警察無線のデジタル化などに取り組みながら、電気や通信技術の基礎を一から改めて学ぶことができました。これは一生の宝となりました。

 

それだけではなく、組織に必須の報告・連絡・相談(いわゆる「ホウレンソウ」)の意味付け、報告書やビジネスレターの書き方など事細かに教えてもらえたことで、社会人として、技術者としての基礎ができ、以後の自分の仕事の土台になりました。本当に感謝しています。

 

”裏側が知りたい”エンターテインメントの世界へ

警察庁の技術職員のあとはどのようなお仕事をされたのですか?

 

驚くなかれ、東京ディズニーランド(株式会社オリエンタルランド)に転職したんです。

 

それは驚きです!全くの畑違いのような気がしますが、きっかけは何だったのですか?

 

きっかけは家族でディズニーランドに行った時に見たアトラクションなんです。

 

たとえば『カントリーベアシアター』ではクマが出てきて歌うんですが、単純に考えるとあり得ません。でも、ありえないところにこそ技術があって「どんな技術なのか、仕組みを見てやらないと一生後悔する」って裏側が知りたくなったんです。これは子供の頃のプラモデル作りのときに起こった気持ちと同じだったのだと思います。

 

 

音響や映像表現にも最先端の技術が使われているディズニーの世界にすごく興味がわいて、それで「次のステップに進みたい」と転職したんです。とにかくやりたいことができればいいという一心でした。

 

エンジニア魂ですね。それで入社してどのような仕事をされたのですか?

 

最初は「オーディオ・ビデオ・コントロールシステム」の保守の仕事をしました。保守というのは、機材にトラブルがないようにメンテナンスしたり、トラブルが発生したときに修理をする仕事です。

 

その後、東京ディズニーシーの開業プロジェクトに関わり、技術本部マネージャーとしてアトラクションやエンターテイメントショーの開発も手がけました。

 

ディズニーファンとしてはうらやましい限りです!実際勤めてみて、どうでしたか?

 

ディズニーランドは営業時間が長いですから、早番や遅番が交互にあって、徹夜作業もありました。開発の仕事というのは、営業時間外の深夜に現場に入るということも多いんです。特にエンターテインメントショーのリハーサルは全部夜です。そのため、体力的には厳しいところもありました。でも、仲間と一緒に作り上げる仕事ですので、ずっと仕事は楽しかったです。達成感とかやりがいが、次の仕事の大きなエネルギーになっていました。

 

これは余談ですが、東京ディズニーシーのオーディオ担当をした時に、高校時代から憧れていた電子音楽の第一人者、冨田勲(とみた いさお)さんにテーマ音楽をお願いすることになったのです。お会いした時には「夢がかなった!」と感無量でした。

 

私にとってオリエンタルランドの仕事はお給料という対価だけではなく、知れば知るほど深みがある知識や成長の糧が得られるものでした。だからこそ、長く続けられたんだと思います。

 

新たなやりがいを求めてアートの島へ移住

早期退職を決意して瀬戸内海の直島へ移住

2度目の転職を決断されたのはなぜですか?

 

仕事は本当に楽しかったのですが、新しいことにトライしたかったですし、その先に「いつか起業を」という思いもあったのです。しかし、新たなチャレンジをするのであれば、体力も必要です。そこでオリエンタルランドの早期退社制度を活用し、定年5年前の55歳で退職する決断をしました。

 

東京でのお仕事から、なぜ一転して直島に行くことを決めたのですか?

 

私は岡山県立玉野高校の出身で、玉野の向かいにある直島に親近感があったのだと思います。それまで直島が変化していくいろいろな記事を関東で読んでいて、それが心に引っかかっていたのかもしれません。

 

実は、退職の数年前から夏休みなどを利用して直島のベネッセハウスやアート施設をチェックしていました。私はいつも就職前のリサーチはとても大事だと思っていて、会社に入るなら実際にやっている事業に触れてみる、その会社の製品を使ってみる、宿泊施設なら泊まってみるというのは、絶対に必要だと思っていました。(ちなみに、ディズニーランドに転職する時も、家族で年間パスポートを買って足繁くに通っていました)

 

相手をちゃんと知るということですね。それで、タイミングよく募集はあったのでしょうか?

 

いいえ、オリエンタルランドのときもそうでしたが、直島で求人があったわけではないんです。この場所だと思ったから、自分から履歴書を出したんです。2箇所とも履歴書を2回出していて、どちらも最初は断られ、2回目に採用されたんですよ。一回で諦めてはいけませんね。因みに直島では一回目に公益財団法人福武財団、二回目に株式会社直島文化村に履歴書を出しました。

 

自分から売り込んだ上に、諦めないのはすごいです!

 

それで、念願かなってベネッセハウスを運営する直島文化村に入社し、施設管理部に配属されました。

 

入ったら、どこの会社も一緒です。知らないことだらけで、慣れるだけでも何ヶ月もかかるような状態でした。当然ですが新しい職場では前職の実績は誰もくわしく知りませんから、周りからも当然厳しく対応されます。コツコツと実績を残して少しずつ信頼されるようにならなければなりません。55歳からの3年間は、新入社員として本当に苦労しました。定年後の60歳から別の世界に転職していては、たぶん体力的にも精神的にも持たなかったと思います。

 

最初は単身の社員寮に入ったのですが、周りのスタッフの方は若くてバリバリ働いていて、目がキラキラしている方ばかり。最年長の私でしたが、刺激をもらいながらの生活はすごく楽しかったです。

 

積み重ねた技術力が支えた起業

起業も念頭にあったということでしたが、いつ頃から考えていたのですか?

 

会社経営となるとわからないことばかりでしたから、55歳の時点ではまだ自信はありませんでした。そこで、5年間働きながら準備をして、60歳で起業することにしました。

 

私は総合無線通信士の他にも消防設備士、電気工事士、危険物取扱資格や情報処理技術者、防災士の資格も持っています。これらの資格が「美術施設の維持管理を効率化したい」という直島文化村、福武財団の思いともマッチしたため、直島でメンテナンスサポートの会社を起業することになりました。これが、合同会社直島アートユニットです。

 

美術館のメンテナンスはこれまでの仕事と共通点があるのですか?

 

わかりやすいところでいうと、以前豊島に『ストームハウス』という作品があったんですが、そこはもうまるっきりディズニーランドのホーンテッドマンションみたいな作品で、音楽、音響効果、照明技術が同期して扉がガタガタ音を立てる仕組みになっているんです。

 

 

エンターテインメントの中でも、「ショーコントロール」という分野になるのですが、オーディオやビデオなどいろんなエフェクト要素を同期させて演出するテーマパークの技術と非常に近いものなのです。

 

ここに至るまでの職業は一見何のかかわりもないように見えますが、実はエンジニアとして培った技術が起業に導いてくれたと思います。

 

佐々木さんから活躍の場を求める皆さんへ

東京2020の聖火ランナーとして直島島内を走る佐々木さん

島で働くこととは

島で働くことについてもう少し教えていただいてもいいですか?

 

島の生活は豊かでのんびりしていて自然の雄大さなどに憧れて来られる方も多いと思いますが、やっぱりどこでも仕事は厳しいものですから、そこは区別して考えておいた方がいいのかなと思います。

 

それから島には年齢や経験に関係なく活躍の場があります。人が少ない分、自分でやるしかないということでもありますが、だからこそ自分の守備範囲が広がりやりがいにもつながってきます。

 

自分の存在意義を見つめ直す場として、島はすごく魅力的な場所だと思います。都会では見失いがちの、自信を取り戻せます。
いろんな問題を解決するのに意見が言いやすい環境だということもありますね。これは島に限らず、小さな自治体に住む強みだと思います。

 

極めること、そして常にクリエイターであること

これから職業選びをする若者へメッセージをお願いします。

 

人口が減少していますから、これからは島でなくても若い方の活躍の場は幅広くあると思います。そこで、私がお伝えしたいことは二つです。

 

一つは、特技でも資格でも興味があることを極め、誰にも負けないものを持ってほしいということです。

 

私の場合は総合無線通信士の資格でしたけれど、それを核にエンジニアとして技術力を上げていく中で、メンテナンスの知識も蓄えました。何かを極めると何より自分に自信がつくと思いますし、新たな道が自ずと開けていくケースが多々あります。

 

もう一つは?

 

常にクリエイターであれということですね。

 

クリエイターとは?

 

政治や社会に無関心にならず、日常の中で気づきを持ち、問題を解決するようなクリエイティブな行動をする。それが私の考えるクリエイターであり、これからの未来に必要な人材像だと思っています。

 

なるほど、勉強になります。では、最後に、佐々木さんご自身はこれからどんな未来にしていきたいかをお聞かせください。

 

会社を持っていますので、後継者を育てていくことが必要だと思っています。ただ、直島の場合は人材に限りがあります。それをどうやって確保するか。別の地域に住む方を呼び込もうにも、住むところが大きな課題で、お試し住宅もまだ十分ないのです。これは私一人の力ではどうにもなりませんから、周りを巻き込んで、同じように考えている企業と、将来共同で宿舎を作れないかと思っています。あわせて、島の魅力発信も続けていきたいですね。

 

私は何か学習を常にすることを癖にするようにしていて、今は気象予報士の勉強をしています。この資格も、いずれ取得して仕事に生かしていきたいと思っています。

 

まだ学びが止まらないなんてすごい……私も見習いたいと思います。佐々木さん、本日はありがとうございました!

The Naoshima Plan「水」のスタッフと共に(前列左端が佐々木さん)

(編集:中村 暁子/執筆:井ノ上 美恵子)

 

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