自分が住む地域の魅力って、何か思いつくものがありますか?自分の地元の地域資源には灯台下暗しで意外に気がつかないものですよね。
垂井美由紀(たるいみゆき)さんは津山市に移住されて、岡山の地域資源をWEBで発信しています。
目次
垂井さんのお仕事
岡山の地域資源を発信する
——垂井さんはどんなお仕事をされてますか?
——他にはどんな事例がありますか?
「作州がすり」を使って何を作るか。私はエプロンが好きなんです。エプロンを好きという人がどれほどいるかわかりませんが、私は40着ほどのエプロンを持っています。自分が使いたいもの、自分が好きなものを作ろうと思い、「作州がすり」でエプロンを作ることにしました。試着会をして受注販売会を開いたこともあります。
働くことが、全てのものとつながっている
——垂井さんにとっての「働く」って何ですか?
私は「働く」ということが好きです。仕事のことを考えない日はありません。今日のこと、今年のこと、来年のこと、自分の仕事をどうしていきたいのか、何を成し遂げたいのか、また時代はどのように変化をしていくのか、色んなことを考えます。
——考えるフレームワークって何かありますか?
子どもの年齢に合わせて私のやることは変わります。親の年齢に合わせて私のやることも変わります。その中で、自分は何をやりたいのか、やるにはどうしたらいいのか、どれくらいまでやるのか、なるべく具体的に考えていきます。「ライフプランシート」の作成は、「自分ミーティング」の時間。書き出していくとイメージしやすくなり、私は安心して今を丁寧に暮らしていけるようになるのです。
——なるほど。
垂井さんのこれまで
第1章 母がいない生活
父は転勤族でした。私は神奈川県で生まれ、小学校に入学したタイミングで広島へ引っ越します。当時、小学1年生の私には、2人の弟がいました。
ある日、1歳下の弟の顔色が悪く、病院で精密検査を受けることになります。検査後、白血病を告げられます。この時から、母は弟と大学病院に入院し、私は、父ともう1人の弟と3人で暮らすようになります。
母がいない生活は約5年続き、平日の家事は私がしていました。当時、この状態が当たり前だったので苦しいとは思っていませんでした。楽しいことはしちゃいけない、おいしいものは食べちゃいけないと自分を抑制していたと思います。弟のことを思えば、自分が良い思いをすることに対して罪悪感を感じてしまっていたのだと思います。また、白血病という死を連想させる病気の存在に、弟は死んでしまうのではないかという恐怖感や不安感がいつもつきまとっていました。
第2章 優しい地域の人たち
母と一緒に暮らしていない私と弟に、優しく接してくれる人もいました。町内に住むおじちゃん、おばちゃんたちは夏のラジオ体操や盆踊り、キックベースやバドミントンなどスポーツへ誘ってくれました。
特に好きだったのは、地区センターへ行くこと。歩いて30分以上をかけて通っていました。体育館と図書館を一緒にしたような施設には、優しいスタッフのお姉さんがいました。本を読んでくれたり、オセロを一緒にやったり楽しい時間でした。きっと、このお姉さんに会いたくて遠い道のりを歩いたのでしょう。この頃の経験が、地域に対して何かしたいと思う原体験となっています。
第3章 帰ってきた母
弟が少しずつ家に帰ってくるようになります。家に1泊しては病院へ戻るという生活を繰り返します。やがて約1年続いた慣らし退院生活も終わり、家族一緒に暮らせるようになりました。
帰ってきた母は、すっかり疲れてしまっていました。それまで母親代わりをしてきた私は、母が帰ってくれば、家事から解放される、私も子どもでいられると思っていました。そうはなりませんでした。当時は「うつ」という言葉はあまり知られていませんでしたが、今思えばきっとそうだったのではないかと思います。気付いてあげることもできず、時には責めてしまうこともありました。
第4章 働くことに興味あり
中学生になった頃、以前に比べれば普通の生活になったような感覚がありました。しかし、「私の人生はあまりおもしろくない」と感じてもいました。高校生になったらアルバイトをしよう。お金を稼いで自分の人生を自分で作っていきたい。早く大人になって働きたい。そんなことを考える中学生でした。
高校生になった私は、アルバイトを始めます。地区センターで良くしてくれたお姉さんとの楽しい時間を思い出すと、人と関わる接客業をしてみたいと思うようになります。そのほかには、街頭でのティッシュやチラシ配りもしました。お金を稼ぐということよりも「働く」ということに興味がありました。
世の中には色んな種類の仕事があり、それぞれもらえる金額も違う。労働と対価について不思議に感じていました。例えば、ティッシュ配りのアルバイト。街頭で出会う人は、見知らぬ人ばかり。ティッシュを差し出しても、平気で無視されてしまいます。辛い思いをしながらした仕事でしたが、少額のアルバイト代しかもらえません。
「働く」ってどういうことだろう。何より「働く」という権利を得たことを嬉しく感じていました。
第5章 就職・妊娠・結婚
高校を卒業すると、いよいよ居酒屋に就職します。働くということが夢だったので、新たなスタートを切れたような感覚でした。
就職して3年が過ぎた頃、当時お付き合いしていた人の子どもを妊娠します。私は21歳でした。正直、予期せぬ出来事でしたので戸惑いました。不安な私の背中を押してくれたのは、交際相手のお母さん、今の夫の母でした。母はとても喜んでくれました。自身も21歳で結婚し、その後出産をしたことなど私に話してくれました。
出産後、私はまた働きたいと思っていました。しかし、そうはいかない事情がありました。子どもは体が弱く、毎月のように40度を超える熱を出します。喘息がありアトピー性皮膚炎でもありました。
母である私が一緒にいることは避けられず、働きに出られるような状況にはありませんでした。子どもを授かった幸せを感じながらも、働けないことで社会から取り残されたような孤独感も同時に感じていました。
子どもが2歳・3歳になった頃から、勉強するようになります。働きに出ることはできなくなりましたが、今のうちに学んでおいて、チャンスが来たときすぐに働ける状況を作っておこうと思っていました。2004年ごろ、パソコンの基本操作から書籍を開きながら、独学で習得していきました。
第6章 夫の異変と引っ越し
夫は東京のベンチャー企業で働いていました。まだWEBサイトで商品を買うことが当たり前ではなかった頃、ネットショップの企業に勤めていました。夫は良く働く人でした。住んでいた神奈川から東京まで朝早く出かけ、最終電車で帰ってくる日々を過ごしていました。
ある日、夫の体に異変が起きます。成人アトピー性皮膚炎で入院することになったのです。痛々しくて見ていられない程の症状でした。
2008年、私、27歳の時。夫の故郷である岡山県津山市、加茂に引っ越してきます。夫は玉野市育ちでしたので、加茂には住んだことはなかったようですが、自然に囲まれのんびりしたいい場所だということは知っていたようです。
夫や子どもの体調を考えると加茂への引っ越しは正解だったと思います。実際に5年ほどで子どもの喘息は出なくなり、夫のアトピー性皮膚炎もほとんど完治と言っていいほどまでになりました。
第7章 オンラインショップをスタート
夫の経験や私の勉強の成果を生かして、オンラインショップを立ち上げます。岡山のお米、桃、サクランボなどおいしいものを取り揃えたグルメショップを開設しました。食品以外には備前焼の販売も行うようになり、少しずつ軌道に乗っていきます。
オンラインショップは、都市部に住んでいた私が感じたある驚きから生まれました。加茂では、売られている野菜は誰が作ったものかわかります。当たり前だと思う人もいるかもしれませんが、私にとってはかなりの衝撃でした。
誰が作ったのかがわかることが、大きな安心感につながっていることにも気付きます。この安心感を感じられる食べ物を取り扱い、備前焼など作り手のことが伝わるネットショップを作ろうと思ったのです。特に地域を盛り上げようなどと意気込んだのではなく、私がいいと思うもの、かわいいと感じるものを届けていきました。現在はオンラインショップの経験を活かした事業支援、WEBの専門家として働いています。
第8章 未来を想像する
加茂へ引っ越してきた頃から「ライフプランシート」を書くようになりました。少し先、未来を想像することで、今の自分がするべきことが見えてきます。要素に分解して必要なものを勉強し、遠い目標ではなくできることを積み重ねていきます。大きな1歩ではなく小さな1歩にすることで確実に進み、想像していた未来を実現していきました。
今思えば、「ライフプランシート」を書くことは、不安や恐怖から解放されるためなのかもしれません。子どもの頃は未来が不安でした。自分ではどうすることもできないのが、未来でした。自分で自分の人生を作ることへの憧れがあったから、未来を想像して近づけているのかもしれませんね。
「ライフプランシート」は毎年、アップデートしています。自分と向き合い対話する時間となっています。おすすめです。ブランディングやコーチングの勉強、人前で話すことや話の組み立て方など学ぶ機会を自ら作り、それをお仕事にしていきました。全て想像してライフプランシートに記載したことばかりです。
第9章 加茂へカモン
小学生のとき、地域センターの人や地元の人に良くしてもらったことを覚えています。あの頃の私は直越お礼を言えなかったけど、その経験があったから私も何か地域のことをしたいと思えるようになりました。
子育て中のお母さん6人が集まり、地域コミュニティ「加茂へカモン」を作りました。
朝市へ出店したこと、加茂駅のお掃除をしたことなど、私たちにできることを数年前から始めています。コロナ過で活動を2年休んでいる間に生活リズムや仕事、家庭環境が変わり現在は2人で活動しています。コロナ過でどんな活動ができるか、まだまだ不透明ですが、困ったときは旧メンバーに相談させてもらいたいと思っています。
第10章 これまでも、これからも
夢が最初からあったわけではありません。最初は何をやったらいいか分かりませんでした。
私の場合は、とにかく学ぶことをやめませんでした。それは今も同じです。夢ができた時、すぐに1歩が踏み出せるように、次の夢へ向かって歩けるように学び続けようと思っています。知識はきっと自分を守る武器になってくれると信じています。
(編集:森分志学)