様々な分野で働き方が見直されていますが、医療・介護の世界もそのひとつ。この記事では、IT活用によって訪問看護・介護業界を可視化し、働きやすい環境作りに挑む起業家・高木大地(たかぎだいち)さんの生き方に触れていきます。
目次
高木さんのお仕事
訪問看護・介護業界の後方支援
――高木さんはどんなお仕事をしていますか?
――訪問看護って何ですか?
訪問看護とは、病院ではなくご自宅に看護師が訪問して、そこでケアを提供することです。患者さんが病院に行かなくてもいいんですよ。
—―どんな経緯で今の事業を起こしたのですか?
実際に訪問看護現場に携わり見えた課題が、訪問看護師の非効率な作業でした。
利用者さんのおうちに行くので、移動が必ず発生するんですけど、その移動時間がすごくもったいないなと感じていて。本当は+1、2件もうちょっと回れるのになあということがあったんです。
そこをIT活用で効率化できないかなと考えて、その仕組みを作っています。
中学校野球部の外部コーチも行う
—―野球の地域指導員としてはどんなことを?
僕も中学生に野球を教えたことないので、練習に付き合うくらいはできるかなと思ってはじめはやっていました。次第に熱が入り始めて、僕も怒ってしまうときもありました。そのとき、「それって最近の子どもたちに合わないなぁ」って思ったんですよ。
そこでふと、「もしかしたらこれって会社の経営やチーム作りに似てるかも。僕自身の勉強になるかも。」と気づいたんです。そこからは本格的にコーチとして子どもたちとの接し方を勉強し始めました。
野球の技術だけ教えるのではなくて、子どもたちが主体的に動ける方法を考えないと野球の技術も向上しないし、人間としても大きくなっていかないなと感じたので、そこを大事にしています。
—―子どもへの接し方のポイントはありますか?
子どもたちって見てないようで見ているんですよ。だから、自分を律しないと子どもたちも絶対ついて来ないと思ったので、自分を変えるきっかけにもなりました。
かと言って自分がいい人間になれているとは思っていないので、しっかり子どもたちとの対話を大事にしています。対話を通じてコミュニケーションをとって、「この人についていきたい」って思ってもらわないと!と感じてます。
—―そう気づいたきっかけが何かあったんですか?
中学校の先生のサポートもあって、結果的に辞めることはなかったんですけど、「ああ、これって僕の責任だな」って思ったんですよね。そこで僕の考え方が変わったターニングポイントでした。僕自身は勉強になりましたが、その子たちの人生の数カ月、将来に向けての大切な時間を奪ってしまって申し訳ないと思っている気持ちを、子どもたちに正直に伝えました。
高木さんの脳内
脳内グラフとは、高木さんの頭の中を垣間見て、その割合を数値化したもの。どんなことを日々考えているのか聞いてみたいと思います。
会社 80%
訪問看護ステーションの仲間やケアマネージャーの人たちに、今の事業について相談したりもしています。
—―会社経営で大切にされていることは何ですか?
—―それを意識するようになったきっかけとかありますか?
その結果、詐欺に遭ったりしました。「自分を律しないといけないな」と、自分自身が変わろうと思うきっかけになりました。
その人の時間を奪ってお話をさせてもらっている時とか、大切な時間を無駄に奪っちゃいけないし、双方にとっていい学びがあったり、いいものが吸収できたらいいなと思うようになりました。
勉強 20%
[オフのとき]
次に、友人関係・趣味が20%で、ゴルフや野球をしています。読書や一人で温泉にいったり、できたら趣味にしたいものがその他で残りの10%ですね。
高木さんのこれまで
第1章 中学生、看護の原点
母親が看護師だったので、職場に僕も行かせてもらいました。「このおばあちゃんの手を握って居てあげて」と言われて、ずっと隣に座って手を握ってたんですよ。そのおばあちゃんは認知症のおばあちゃんで、椅子から立ち上がったり怒りっぽい人だったようなんですが、そのときは何事もなく、手をずっとさすってくれました。
そんなおばあちゃんの手を握っていていると、「今日もありがとねぇ」って言って、500円と飴玉をもらったんですよ。その時「看護師いいかも」と思いました。
第2章 家に帰るのも野球するのも辛い
中学生のときに始めた野球は、とても強いクラブチームでした。ところが、僕らの学年が3年に上がるとチームが弱くなったんですよ。監督やコーチに「先輩はあんな活躍できた。でもお前らは・・・」と言われて、辛い中学校生活でした。
その当時、父親も厳しくて、家に帰るのも嫌だ、野球行くのも嫌だ、どこへ行っても自分の帰る場所ないと思っていました。だから、学校は唯一、自分が好き勝手にできる環境だったので、好きでした。
第3章 辛い生活は高校も続く
勉強は得意ではなかったので、体育科は勉強しなくていいという話を聞いて、高校は体育科へ進学したんですが、それが間違いでした(笑)
体育科の先生も先輩もめちゃくちゃ怖くて、とても厳しかったのです。
1・2年生のときが特に地獄でした。中学時代よりも、帰る場所が余計なくなりました。だから僕は、もうプレーヤーとして頑張るしかないと思ってひたすら努力しました。「先輩たちと対等に話せるようになるにはレギュラーになることだ。2年生で絶対レギュラーになってやる!」と考えて、その結果、2年生からレギュラーになりました。
体育科で学んだことは今の野球の指導にも活かせているので、間違ってなかったなと思います。
第4章 蘇る看護師への道
ずっと男くさい環境で数年もまれていたので、「男だったら料理人がいいんじゃないか?」と、看護師の道を当時ちょっと忘れていました。3年生のときに怪我をしてしまったのですが、無理やり最後の大会に出ました。そしたら対戦相手にボコボコにやられて、「こんな調子じゃ野球は絶対できないな」と思って、途方に暮れてました。
そんな時、小・中学生時代に行っていた母親が看護師をしている施設に行くようになりました。今度は手を握るだけでなく、母親のサポートをしているうちに、当時の記憶が蘇ってきました。面白いなと思って、看護師になると決めました。他にやることもなかったので、「じゃあ、看護師になろう」という感覚でもありました。
そして、旭川荘厚生専門学院に入学しました。ずっと野球漬けだったので勉強も全くできないし、体しか動かしたことなかったので、看護師の道でやっていけるか不安でしたが、なんとか卒業できました。これから先ずっと僕は看護師の道を目指そうと思ったのが21歳です。
第5章 病院で働くなかで
最初に働いた病院では、先生や先輩からのプレッシャーもすごくて、顔面神経麻痺になりました。ストレスは自分では気づかぬうちに溜まっていると言うので皆さんも気をつけてください。
次の職場に選んだ施設では、前の病院とまた風土が異なりました。その風土に合わせて、勉強を頑張ろうと思いました。そこは重症心身障害児の利用者さんが多く、言葉をうまく伝えられなかったり、意思疎通が難しい方が多かったので、意思疎通の難しい人に対してリラクセーションは通用するのかについて研究していました。
第6章 起業の気持ちが強くなる
看護師としての最終ゴールは看護部長や病院の理事になることなのでしょう。ただ僕は、研究等を通じて業界全体を良い業界にしたいという想いが強くなりました。看護師のレールではなく、違うレールの上を走ってみたいと感じ、それは社長だと単純に思いました。社長になってこの業界を良くしていきたいなと思ったことが、起業のきっかけの一つです。
そこから起業がずっと頭にありました。2015年に知り合いに誘ってもらい外科クリニックに転職しましたが、働くうちにやっぱり自分でやりたいなという思いが強くなり、2017年に起業しました。
(編集:森分志学)
元々僕は看護師をしていて、その経験から看護師さんの働き方を変えていきたいと考えています。最初は高齢者の相続事業をしていたんですが、今は、僕が看護師として感じてきた課題を解決していきたいと思って、訪問看護・介護業界向けのバックオフィスシステム「chokowa」を始めました。
それが結果的に社会保障費の削減につながったり、健康寿命の延伸につながっていくことを1つの目的地として、共感してくれる仲間(社員)3名で一緒に事業を遂行しています。