看護師にも様々な在り方があることを知っていますか?看護に関わる人の”寄り添い”、どんなことを大切にしているのでしょうか。
この記事では、サポートナースのお仕事をされている岡本未来(おかもとみき)さんの生き方に触れていきたいと思います!
目次
岡本さんのお仕事
看護の知識を活かして多くの人と関わるサポートナース
――岡本さんはどんなお仕事をしていますか?
――サポートナースってどんなお仕事ですか?
例えば、お年寄りが病院へ行くとき、私も付き添って行きます。お年寄り一人では、医師が言ったことや検査の内容などをよく理解できずにお家に帰ってきてしまうことがあります。私が一緒に行くことで正しい理解をし、家族にフィードバックすることができます。
他には、スマートフォンの使い方を教えたり、おばあちゃんの漬物のレシピを残しておきたいという声から、一緒に漬物をつけたこともあります。体調が悪いとか、転んで怪我をしたと連絡があれば、ご家族の代わりに私が駆けつけたこともあります。数時間子どもの相手をするとか、イベントで救急班をするとか、困りごとがあれば、看護師の知識や経験を活かして多くの人と関わらせてもらうことを「サポートナース」と呼んでやっています。
私のモットーは、関わる人全てを笑顔にすること。その人なりの健やかな状態を維持するお手伝いをすることが私の使命だと思ってます!
利用者さんやその家族に寄り添う
必要に迫られないとサポートナースにお願いしませんから、もっと早くお付き合いができたら、どんなことが私にできただろうかと考えることもあります。
――どこか、もどかしさも感じるのですね。
ご家族は、私にありがとうと言ってくださるのですが、言葉の芯にはさみしいという感情があります。あれもこれもしてあげられたのではないだろうかと自分を責めてしまいますし、何かしら後悔が残るものです。思い出さないようにしようと思っても、思い出してしまいます。
「思い出してあげてください」と、私は声をかけます。多くの別れを共にしましたので、送り出す人の気持ちに寄り添っていきたいです。
岡本さんの脳内
脳内グラフとは、岡本さんの頭の中を垣間見て、その割合を数値化したもの。どんなことを日々考えているのか聞いてみたいと思います。
50%―楽しいこと、わくわくすること
私の担当は「食べたいものを言う係」でして、母が献立を作り、地域のおばちゃんたちが料理をしてくれます。私は食べるのが好きで、特にお米(ご飯)が好きなので、自称「ご飯食い」です。ご飯を美味しく食べるためのおかずを考える。こんなに楽しいことないですよね。パンの日でも小さいおにぎりつけてほしいと注文するくらいの「ご飯食い」。考えるだけでわくわくします(笑)
食べること以外には、高校生たちとの交流はわくわくしますよね。勝間田高校の福祉コースで非常勤講師をしています(2021年6月現在)。高校生からは「どうやってお金稼いでいるの?」などとストレートな質問が飛んできます。私は、高校生たちが気になることが気になります。お互いに「なんで?なんで?」とぶつけ合うのって楽しいですよね。
——なるほど。楽しそうですね!
もちろん、楽しくないこともありますよ。楽しくないからやらないのではなくて、少しでもやってみようかと気になることであれば、どうやったら楽しくなるかを考えます。自分で気持ちを少しだけ引き上げることもあります。
周りへの影響も少し考えます。楽しそうな人の近くにいると楽しくなると思うのです。お年寄りや子どもに対しても、私のわくわくする気持ちが伝わるかなと思いながら行動するようにしていますね。
生きることって本来、楽しいことだと思うのです。どうやったらもっと楽しく生きられるかと考えるのが原点ですかね。
5%―お酒を飲みながら
特にお堅い仕事をしている人やお立場がある人は、お酒を飲みながらの会合は、熱い話になっていきます。「町おこしはお酒なしでは始まらない!」って言いますよね。みんなが楽しくなって柔らかい雰囲気の中だと、良いアイデアも生まれると思います。
20%―我が子のこと
育児は大変なことも多いですが、毎日楽しいです。オムツはそろそろ大きいタイプにした方がいいのかとか、ミルクは少し安いのに変えてみようかと考えるなど。そもそも飲ませているミルクは本当に美味しいのかと自ら舐めてみたりしています。
赤ちゃんは泣くのが仕事です。泣き止まなくて困ってしまうお母さんも多いと思うのですが、我が子には生まれてきたらもう自立してもらおうとは言い過ぎかもしれませんが、なんとか自分でするでしょうとおおらかに構えています。
出産に関しては、感動の連続でした。無痛分娩といって、麻酔で痛みを抑えて出産する方法を選びました。痛みがないとわかれば、考えるのは空腹の心配。陣痛の時にお腹が空いたらどうしようと、夫におにぎりの差し入れをお願いしました。実際には、持ってきたタイミングでは食欲はなく、冷蔵庫に入れておきました。
出産が終わり、病室に戻ってきて2時間くらいは疲れて寝ていました。目が覚めて口にしたおにぎりは、めちゃくちゃおいしかったです。しかも、おにぎりに漬物を入れてくれていたのです。普段からこんな気の利いたことをしてくれるような夫ではないだけに、感動して涙が出ましたよ。
——色んな感動が!
感動した話はまだあります。我が子は生まれてすぐ、皮膚が黄色くなる黄疸(おうだん)になりました。黄疸になると光線療法といって、光に当てる治療を受けるのですが、この時、目にアイマスクをします。生まれてすぐの我が子を取り上げられ、治療されることに号泣してしまうお母さんも多いと聞きます。私も号泣したのですが、理由は違います。
一緒にいてくれた保育士さんがアイマスクに眼の絵を描いてくれました。アニメ「鬼滅の刃」に登場するねずこ(竈門禰豆子)の眼。我が子がねずこの眼になったのです。気を落とさないようにと、一生懸命に描いてくれた保育士さんに感動して、嬉しくて、写真撮りまくりました。周りには悲しくて泣いていると思われましたけどね。
15%―将来のこと(5年先くらい)
約15年続いた福祉コースは、今年はもう新入生の募集をしなくなりました。つまり、在校生が卒業するとコースはなくなってしまいます。例えば、「介護部」という部活動として実現できれば、卒業生が現場で働く中での相談をできる場所となるだけでなく、学校の福祉用具を貸し出すなど地域の人ともつながれる可能性があります。いつでも帰ってこられる場所として「介護部」をつくりたいです。
働くこと以外で言えば、家族旅行を考えます。考えるだけでワクワクします。沖縄にUSJのような遊園地ができるらしいと聞きつけると、我が子が何歳の時で、兄の子どもが何歳で、そうすると習い事があるからとか、色々と妄想します。将来への不安がないわけではありませんが、こういった楽しいこと考えていたいですよね。
10%―父のこと
我が子を父に会わせられなかったのは残念ですが、すぐ近くに父を感じることがよくあります。我が子が泣いていると、「おーい、泣いているぞ」と父の声が聞こえるような気がします。毎日、家の神棚におはようとか、おやすみと声をかけます。こういった時間も、父の存在を感じられる瞬間です。
岡本さんのこれまで
次に「人生グラフ」を作ってみたいと思います。人生グラフとは、生まれてから今日まで、さまざまな出来事によるご自身の気持ち・運気の上がり下がりを可視化するグラフです。どんな指標でもよいので、これまでどんな人生を歩んできたのか聞かせてください。
第1章 唯一の女の子、チヤホヤ
2歳上に兄、2歳下に弟の3人きょうだいの真ん中として生まれました。女の子は私だけでしたので、蝶よ花よと育てられました。当時としては珍しく、両親共に会社勤めをしていました。生まれは、大阪・天満。大きな商店街があり賑やかな場所です。
3、4歳になる頃に、転勤で勝央町に引っ越しました。親が働いている間は、こけて膝を擦りむけば近所のおばちゃんに絆創膏を貼ってもらうこともありましたし、おやつをもらって食べていました。近所のおばちゃんたちに育ててもらったような感覚です。
第2章 兄と弟の間で
私から見れば、兄はキラキラした人でした。人気があり、中学生の頃には取り巻きがいました。そのおかげで、兄の友人たちからは、妙に優しくされたり、妙に冷たくされたり、今思えば、漫画の世界を体験しました。
弟はまた違ったタイプで、私を姉だと思っていない態度。同級生と思っているのか、呼び捨てにされ、どうやら尊敬されていなかったようですね。
私は、いわゆる「陰キャ」だったと思います。勉強はあまり好きではなかったですし、習いごとに行っても長続きしませんでしたね。何がしたいも特になく、中学3年生になります。
第3章 先生の一言
中学3年生の担任が、「これからは福祉が熱いぞ」と教えてくれます。おそらく介護保険の制度ができる頃だったのでしょう。私は「社会科の先生でもある担任が言うなら間違いない」と思い、猛勉強を始めます。猛勉強を始めると言っても、すでに11月くらいだったと思います。
勉強し始めた頃は、ヘルパーを目指し介護の世界に進もうと思ったのですが、その時の自分にはかなりハードルが高そうなことに気付き、看護科のある高校を受験します。介護も看護も言葉はよく似ているし、福祉業界には変わりないと楽観的に考えていました。手に職を付けて、キラキラした兄や弟に勝ってやると意気込んでいました。
第4章 准看護師になった私
高校3年間を過ごし、准看護師の資格を取りました。卒業後は、働くことを選び、病院に就職します。
病院に入ってみてわかることがあります。正看護師と准看護師では、大きな違いがありました。周囲からの見られ方、いただける給料の差、任してもらえる仕事など。劣等感を感じ、正看護師をとるために、もう一度学校へ戻ることにします。
1年間、病院で勤めて、もう一度、高校生に戻りました。年齢は20歳になっても肩書きは、高校生。映画も高校生料金で見ることができます。なんだか不思議な2年間でした。
第5章 看護の分断
正看護師をとり、病院に戻りました。しかしながら、楽しさやワクワクのようなものはありませんでした。病院の世界は、何に対しても根拠を求められます。「それはなんで?どうして?」と理解しているつもりでも、責められているような気分になり、気持ちに余裕はありませんでした。「看護師は、真面目できっちりしている人」と私生活にでもレッテルを貼られているようで、自分で自分を縛り付けている感覚がありました。
この頃から、患者さんとの接し方にモヤモヤすることがありました。一人の患者さんが病院に外来で訪れ、診察し、入院する。どこの管轄にいるかによって、次から次へと医師も看護師も代わっていきます。退院された後は、誰も関わりません。役割が分断され、患者さんに寄り添えていない感覚がありました。
入院病棟に勤務していた私は、退院された方とたまたま街で会うことがありました。その後の経過をお話しくださる方もいますし、困りごとを話してくださる方もいます。しかしながら、私は何もしてあげられません。こうしたらいいですよとも言える立場ではありません。もっと患者さんの生活に近いところにいたいと思うようになりました。
第6章 もっと生活の近くに
患者さんの生活により近い場所を求めて、デイサービス施設で働くことにしました。デイサービスとは、普段は家で過ごされますが、週に何度か施設に来てもらい機能訓練や他者との交流を図る場所。私たちは、患者さんが施設に来ている時のことはわかるのですが、家での状況はわかりません。もどかしさをここでも感じていました。
もっと生活に近い場所は、患者さんのお家でした。訪問看護に転職します。お家へ伺うので、病院や施設とは違い、補助器具や設備が不十分です。そんな中でも対応するには、知識も技術も必要です。ここで看護の幅が、ぐっと広がりました。想像力が大事だと気付づかされました。
訪問看護からデイサービスの職場に戻ってくると、自分の目線が変わったように感じます。以前よりも利用者さんがお家に帰ってからのことを考えるようになりました。例えば、利用者さんがお家に帰ってから、家族とお話しするとは限りません。家族への連絡帳に今日あったこと、どんな話をしたかなどを記しておきます。ご家族との会話のきっかけにしてもらいたい気持ちで始めました。コミュニケーションの数が増えると人は元気になるものですから。
その他には、利用者さんがお家に帰る直前には、なるべく大きなオムツを履いてもらうようにします。利用者さんがお家に帰っても、しばらくご家族が帰ってこない場合もあります。少し余裕を持った対応をすることで、利用者もご家族も安心で楽な気持ちになれる方法を考えられるようになりました。
第7章 コミュニティナースを知ってもらうために
2016年、勝央町の地域を活性化しようと活動する人たちの発表の場、志(こころざし)プレゼンテーション「町民の主張」が初開催されました。出場したのは私ではなく、母。母は福祉の世界に入った私に影響を受け、介護福祉士・ケアマネージャーになりました。アロマトリートメントを使って、お年寄りとつながる場をつくっていました。母の発表をサポートするため、資料を作りなどの手伝いをしました。
大人も子どもも一緒に食事する「子ども大人食堂」のサポーターとして、翌年もお手伝いをしました。会の主催者や発表する人など、知り合いがどんどん増え次は自分がプレゼンするように勧められます。誰かのサポートをするのが好きで、自分が出場するのは断っていましたが、「プレゼンするとビジョンが広がるよ」と背中を押され、挑戦することにしました。
2018年、私は「コミュニティナース」のプレゼンをしました。多くの人に知ってもらう機会をいただいたこと以上に、この会に関わるようになってから勝央町との距離が近く感じるようになりました。新しい発見でもあり、私にとって嬉しいことでした。
私は幼い頃、周囲の大人・町の人が育ててくれたと思っています。ずっと前から、何か恩返しがしたいと思い、私には何ができるだろうと探していました。町との距離が近づき、やっとできることが見つかりそうです。
第8章 父をサポートする時間
コミュニティナースのプレゼン後、「サポートナース」という新しい事業展開が始まろうとしていました。お仕事の休みの日などを使って、これまで関わらせてもらったお年寄りを中心に「お元気ですか」とご機嫌伺いをしていました。まだボランティアでしたが、困っていることがあればお手伝いさせてもらいました。
そんな中、父に病気が見つかります。プレゼンして約7カ月後の9月でした。家族には余命が告げられ、私は仕事を辞めることにしました。父は延命治療と理解していましたが、余命を聞くことを拒否しました。他人に終止符を打たれる気がしたのでしょう。
必要な時に父の近くに居てあげられる状態にしたいと思い、方向転換をします。結果的には2019年4月にフリーになりました。父は入院するのではなく家に居たいという要望を叶えるために、私は父のプライベートナースとなりました。
第9章 父との別れ
同じ時期、結婚を考えていました。夫は岡山市内に住んでいましたので、父は結婚すると私が勝央町からいなくなってしまうと思い、激怒したこともありました。私が岡山市内に引っ越すつもりがないことを知り、結婚に賛成してくれました。
父は2020年6月に命を引き取ります。主治医、ケアマネジャー、看護師さんなど本当にありがたく感じました。
お手伝いする立場の私が、家族の立場になってみて、わかることがありました。ある日、私は学校の授業があり一緒にいられない日がありました。デイサービスに行ってほしいと伝えると、父はじゃま者扱いされたと感じ、怒ったことがありました。じゃま者扱いにしたつもりはもちろんなくても、当事者にはそんな風に感じてしまうことに気付かされました。
第10章 これから未来へ
母も私と同様に父の余命を知っていましたので、ある意味覚悟をしていたのだと思います。もともと母は自分自身もいつまで生きられるかわからないと考えている人。やれることを精一杯やろう、なんとかなるよ、後悔なんてしないと楽観的でパワーのある母が良い空気を作ってくれたことに感謝しています。
我が子を父には会わせることはできなかったですが、父はすぐ近くにいるような気がしています。
私が大事にしている岡本家の家訓のようなものがあります。あまり深く考え過ぎるのをやめ、少し力を抜いてわがままに生きていく。
いい意味で「よそはよそ、うちはうち」。
(取材・執筆:松原 龍之、編集:森分 志学)