牧場経営で地域再興に取り組む繁殖農家・末澤雅彦さん

  • #酪農・畜産
  • #社会課題に取り組みたい
  • #自分の気持ちに素直でいる

公開日 2022.03.19

この記事では、プロの自然写真家というキャリアを経て津山へ移住し、牧場経営で地域の再生を目指す末澤雅彦(すえざわ まさひこ)さんの生き方に触れていきます!

 

末澤さんのお仕事

写真家から和牛の繁殖農家へ転身

――末澤さんはどんなお仕事をされているのですか?

 

津山市で和牛の繁殖農家をしています。繁殖農家とは、母牛に子牛を産んでもらって、その子牛を商品として出荷するという仕事です。私はそれに加えて家畜人工授精師の仕事もしています。

 

また、前職は北海道でプロの写真家をしていました。今は、津山市で写真の講師もしています。最近では山陽新聞のカルチャースクールや、写真の審査員などの依頼もありました。自然をフィールドにした生涯学習にも取り組んでいます。

 

 

――プロの自然写真家から繁殖農家に転職したのはなぜですか?

 

まず、妻の地元である津山に移住することを決めたからです。津山市に引っ越してきたのは、子どもたちがまだ保育所にいる頃でした。いずれ津山に帰るなら、子どもの友達のことなども考えて、子どもが小さいうちの方がいいだろうという考えからです。

 

自然写真家としての活動は、北海道の雄大な自然と豊かな動植物モチーフがあってのものでしたから、「自然写真家」という肩書きは北海道に置いてきました。

 

移住した先の津山は少子高齢化がとても進んでいました。今住んでいる津山市の宮部上地区も、50軒ほど世帯数がある中で跡取りがいるのはたった7軒。そのため農道や耕地の整備も行われておらず、農地は荒れていました。妻はその様子を見て「昔より山が里に近づいて来ている」と口にしました。

 

――山が里に近づいてきているとはどういうことなんですか?

 

耕作放棄地が多くなると樹木が増え、里だった土地が森になっていってしまって来ているということです。それが川に近づくと有害鳥獣害獣(イノシシなど)が里に下りてきて、残った農地にも悪さをしてしまう負の連鎖がはじまってしまうんです。そうした流れを自分達の手で食い止めないといけない、そう感じました。

 

そこで自分達の活動のテーマに決めたのが「地域再興」、農地を活用し、「ここじゃないといけない何か」を見つけ、地域をよみがえらせることでした。そうして始めたのが岡山の優良黒毛和牛の繁殖農家です。

 

宮部上地区は広い農地がある中山間地で、すぐ目の前に宮部川という川がありました。宮部川は夏には自然繁殖した蛍がたくさん飛ぶ川です。荒れはじめていた河川近くのこの場所で和牛を放牧すれば、牛の力を借りて自然環境を保全し、耕作放棄地も活用し、里の美しい景観も保つことができると考えたんです。

 

子どもたちの学びにも関わる

――自然の生涯学習はどうしてはじめたのですか?

 

せっかく引っ越してきたのであれば、子どものためにもこの土地を好きになってもらい、ふるさとだと思ってもらいたいと考えたことがきっかけです。

 

妻は北海道にいた頃、環境省の施設で自然ガイドの仕事をしていました。夫婦で自然を活用する方法を理解していたので、「自然と触れ合うことによってこの土地の本当に持っている素晴らしさを発見しよう」「この土地にある宝を探し出して子どもたちに教えていこう」と始めました。

 

【脳内グラフ】

脳内グラフとは、末澤さんの頭の中を垣間見て、その割合を数値化したもの。どんなことを日々考えているのか聞いてみたいと思います。

牛のこと 60%

僕らは繁殖した子牛を育て、それを加工もしてきましたが、2021年には販売までを担うようになり、産業の六次化を果たしました。お肉の販売の戦略まで含めて業務は多岐にわたるので、こうした繁殖畜産のことを頭の中ではよく考えています。

 

子どものこと 35%

僕には3人の子どもがいます。進路や将来のことで相談を受けることが多いです。また、上の子ども達は農業や畜産に対してたくさん学んでいるので、同じ経営者のような目線で会話をすることもあります。

 

親の背中を見てくれているんだなと会話の端々からも感じるので、変なことはできんなぁとも思って身が引き締まりますね(笑)

 

自分のこと 5%

残った5%ぐらいが自分のことかな。

 

末澤さんのこれまで

第1章 自然破壊を止めるために写真を撮り始める

高度経済成長期の後期に学生時代を過ごした僕は、北海道で森林伐採やリゾート化が進んで大きなホテルが建って、野生動物や自然植物が失われていくさまを目の前で見ていました。

 

「これはどうにか止めないといけない」

 

そのために何ができるのかを考えてはじめたのが「まず今目の前にある現状を写真として残す」ということでした。そうして自然の写真を撮り始めた僕の様子を見て「写真を勉強してみるか?」と声をかけてくれたのが僕の写真の師匠です。師匠と出会い、僕は本格的なプロの自然写真家を目指すことになりました。

 

第2章 プロとして全力疾走した自然写真家時代

自然写真家になった僕は、毎日自分の命を削り、写真に吹き込んでいました。自然環境の変わりゆくさま、それを訴えかけるようなプロの写真は、常に自然の中にいて、五感六感を研ぎ澄まさないと撮れません

 

そのため、毎日山の中でテント生活をして、野生動物と一緒に山の中を駆けずり回るという生き方をしていました。365日あって家に帰るのはたった3日くらいでしたね。この頃ファインダーの覗き過ぎて、右目の視力はほとんどなくなりました。右目の眼球が光で焼けてしまったんです。

 

師匠に右目のことを伝えると「右目がダメなら左目があるじゃん」と言われました(笑)
その頃からはファインダーは左目で覗いています。そうして命を削って撮った写真だからこそ、様々な賞をいただくこともできたのだと思います。

 

 

第3章 故郷北海道から奥さんの地元・津山市へ

子ども達の成長を考えて、妻の実家がある津山市に引っ越してきました。それまで住んでいた北海道とは環境・文化が全く違うから、当然不安もあったんですが・・・。

 

まず一番きつかったのは梅雨でした。本州の人は慣れてますけど、北海道には梅雨がなかったんです。夜は眠れないほど蒸し暑くて、エアコンを効かせると妻が「寒い」って言うんです。

 

他にも食文化の違いにとまどいました。北海道は牛肉を食べる習慣がないんですよ。北海道では牛は乳を絞るもので、肉はラム肉(羊の肉)か豚肉を食べます。

 

ただ、驚くこともたくさんあったけど、「ここにも良いものはたくさんあるし楽しんでいこう」と思っていたら、徐々に慣れていきました。やっぱり住めば都ですね。

 

第4章 「さくら号」から学んだ生と死

津山で繁殖農家を始めた頃、僕の価値観に大きな影響を与える出来事がありました。それが「さくら号」の死です。

 

繁殖農家の開業当初、「さくら号」という子牛が僕らのもとにいました。一頭しかいなかったので手間暇かけて飼育し、よかれと思って自然のあぜ草などをたくさん食べさせていたんですが、1歳の誕生日頃にエサを食べなくなり、瞬く間に衰弱死してしまいました。

なぜさくら号は死んでしまったのか、その原因を調べるために家畜解剖にかけた結果、原因はあぜ草にかかった除草剤だったことが判明しました。

 

除草剤は手軽に使えるけど、実は牛ですらも殺せてしまう。そんな除草剤のかかった草を食べてできたお肉を、いずれ人間が食べたらどういう影響が出るのか・・・。

 

その出来事から、ただ牛を飼うのではなく、餌まできちんと管理をして、その肉を食べたヒトの健康まで考えたモノづくりをしていかないといけないと僕らは肝に銘じました。そして、そのことを決して忘れないように牧場の名前に「さくら」の名前を入れたんです。

 

第5章 40歳で家畜人工授精師の資格取得

僕は高校や大学で畜産業を学ぶことなく異業種から畜産業に入ったので、それまで畜産業をやってる方からすると「それでは牛を殺してしまうぞ」と言われるくらい、最初はむちゃなことをしていたなと思います。

でも、牛の飼い方を知るために色んな農家さんを尋ねて学び、43歳の時には農業大学校に入って家畜人工授精師と受精卵移植師の資格を取りました。僕は子ども頃、勉強が好きではなかったけど、自分が必要だと思う勉強は苦しくはなかったです。

 

常に向上心を求めて自分の考えてるものに突き進んでいこうと思ったら、勉強はやはり必要です。でも、自分のスキルアップを目指して学んでいることは、大変ではあっても「苦労」という感じではなくなって、楽しさを感じられます

 

第6章 新たな挑戦、お肉ソムリエ・ミートアドバイザー

僕らは育てた牛の肉の販売もしています。ですが、ただお肉を売るだけだったらスーパーの肉売り場と同じになってしまいます。

 

「自分達がこだわり抜いて育てた牛のお肉を、最も良い状態で食べてもらいたい」そう考えると、お客さん一人一人にお肉の部位の丁寧な説明をしながら焼き方や味付けまで伝える必要がでてきます。そのために取った資格が「お肉ソムリエ」と「ミートアドバイザー」です。

 

第7章 自分の心に素直になって、まずはやってみて

自分が「これだ、やってみたい」と思ったことは、ぜひ調べてみて突き進んでみてください。ダメだったらダメで考えればいいんだから、チャレンジを恐れる必要はありません。自分の心に素直に行動するのが一番だと僕は思います。

 

親の顔色とか資金のこととか考えすぎず、まずは思ったようにやってみて欲しいです。僕も10代で外国まで飛び出しましたから、その中で専門家の先生や、同じ商売をしている人、色んな人と出会っていったら道は見えてくるはずですよ。

 

自分の思いの大きさと出会う人の数は比例していると思います、思いが大きい程、無限に出会いが広がって行きますので、夢は大きく自分の気持ちに正直に進みましょう。

 

(編集:北原泰幸)

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