あなたのための防災を絵本で届ける気象予報士・中島望さん

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公開日 2025.02.21

「やりたいこと」や「興味のあること」がはっきりしている人を見ると、正直うらやましいと思う。自分はどうして世の中のことに興味が持てないんだろう。

 

でも、それはまだ「出会っていないだけ」なのかもしれません

 

今回お話を伺ったのは気象予報士の中島望さん。その生き方には、経験の中で模索しながら自分の可能性を広げていくためのヒントが詰まっていました。

中島さんのお仕事

★中島望(なかしま のぞみ)さん

岡山県出身の気象予報士・シングルマザー。NHK岡山のニュース「もぎたて!」に気象キャスター・気象解説員として出演中。その他にも、気象防災アドバイザーとして様々な活動を行う。

 

★いぶきさん

岡山県内の大学に通う3回生で、就活ではマスコミ業界を志望中。やりたいことが多く、同時並行に悩むこともしばしば。

 

天気予報と、あなただけの防災絵本

 

中島さんは普段どんなことをされているのですか?

 

 

NHK岡山の「もぎたて!」という番組で、気象解説を担当しています

 

全国放送では「北日本」や「東日本」など広いエリアのお天気の傾向をお伝えするのですが、地域放送ではその地域に特化した、よりきめ細やかな情報をお届けするのが役目です。

天気や災害のかたちは、山や川といった地域ごとの地形によって大きく変わるんですよ。私はお天気が大好きなので、そうした地域ごとの特性を細かく見ているのが楽しいんです。

 

放映時のクロマキー合成のため、撮影中はこんなご様子。(特別にシェアしていただきました〜!)

 

私は気象キャスターのほかにも、講演会活動をしたり、絵本を書いて広める活動をしたりしています。

 

絵本ですか?

 

 

はい。この絵本は自分の家だけの防災マニュアルのようなものです。ハザードマップ等を見ながら書き込んでいくと、災害のリスクや必要な備蓄量が分かるようになっています。最後まで完成させると、自分の家に合わせた防災行動がしっかり取れるようになるんです。

 

 

かわいいです!どうして絵本を作ろうと思われたのですか?

 

 

私はテレビや講演会でお話することがありますが、多くの人に向かって話すので一般的なことしか言えず、「結局自分はどう動けばいいか分からなかった」という声をいただくこともありました。そこで、一人ひとりの家庭に合った具体的な防災の在り方を確立し、届けられる仕組みを作るべきだと思ったんです。

 

絵本にした理由は、一番分かりやすく情報を伝える方法だと思ったからです。この絵本を一家に一冊置いてもらえば、「災害時自分がどうすればいいかわからない」と感じてしまう状況を変えられるんじゃないかなと。

 

どのようにして絵本を広めているのですか?

 

 

絵本の体験会を開いてレクチャーしています。より楽しい時間にするために、お天気にまつわる楽しい話をしたり、アメダスの観測機を持って行って実験をしたりもしています。

 

体験会の一コマ。

 

楽しそうです!

 

 

防災は、楽しくて心にやさしいものでないといけません。心に負担があっては、「面倒くさい」「わからない」と投げ出してしまいますよね。でも、「絵本作るのが楽しかった」「やってよかったな」と思うことができれば、心に安心感が生まれます。

 

それに、少しでも不安感があるとパニックになりやすく、適切な判断が難しくなります。安心感を持つことで救える命があると私は思っています。

 

 

たくさんの人に広まってほしいですね。

 

中島さんのこれまで

音楽との出会い、自我の目覚め

 

現在の中島さんになるまで、どのような人生を歩んでこられたんですか?

 

 

小さい頃はすごく内向的で、姉の後ろをずっとくっついて回っているような子でした。でも、クラスには姉はいないので、自分でなんとかしなくちゃいけない。それがうまくできなくて。だから、学校では周りになじめず、中学ではほとんど喋れませんでした。

 

ただ、小さいころから楽器が好でブラスバンド部に入ったのですが、そこではたくさんおしゃべりができました。

 

そうだったのですね。内向的な性格が変わったなと感じる出来事はありましたか?

 

 

中学3年生の時に、GLAYというバンドに出会ったことで自我が芽生えました(笑)。GLAYの音楽に居ても立っても居られなくなるくらい魂が震えてしまって。もともと音楽や楽器は好きだったのですが、こんな経験は初めてでした。それで、自分もGLAYに近づきたいと、お年玉でエレキギターを買いました。

 

最初は一人で細々と練習をしていたのですが、中学のブラスバンド時代の友達が「一緒にバンドを組もう」と誘ってくれて、ストリートライブなどを行うようになりました。その友達が引っ張ってくれたおかげで、いろいろな経験ができました。この子は今でも親友です。

 

もともと世の中に関心を持つことが少なかったのですが、音楽に触れて歌詞を読むことで、社会や人々のことに目を向けるようになりました。音楽って、音だけじゃなく言葉にも力があるんです。

 

その後、大学時代はどんなふうに過ごされていましたか?

 

 

キャンキャン弾けるキャンパスライフを送っていました(笑)。親元を離れて自由になるのがとても楽しかったんですよ。これといった目標もなく、勉強も将来もあまり深く考えていませんでした。「今が楽しければそれでいい」と当時は思っていたのですが、今思えば人とコミュニケーションをとる練習をしていたのかもしれませんね。

 

どういうことですか?

 

 

私は人を傷つけたり喜ばせたりすることについてほとんど考えずに育ってきたので、「思いやりって何だろう?」というレベルだったんです。みんなでワイワイ騒いで過ごすのが楽しくて、無意識に人を傷つけてしまったこともあったかもしれません。

 

でも、大学生の時期はやっぱり社会に出るための練習期間だと思うので、そういう経験も含めて大切な時間だったんじゃないかなと思っています。

 

 

吹雪に遭い、気象予報士を志す

 

どんなことがきっかけで天気に興味を持ったのですか?

 

 

学生時代スノーボードがすごく流行っていて、私も友達に誘われてゲレンデに行くようになりました。そんな中で、一度だけ吹雪でとても怖い目に遭ったんです。

 

その日は新潟の湯沢というところにいました。新潟にはたくさんのゲレンデがあり、山の斜面で風の当たり具合が変化し、天候が大きく変わるんですよ。当時の私にはそんな知識がなくて、吹雪の激しいゲレンデで滑ってしまっていました。

 

そんな中ホワイトアウトが起こり、視界はほとんどゼロに。すぐ近くのリフトも見えないくらいの吹雪でした。板の上に立っているのもやっとな初心者の私は身動きが取れなくなり、その場にうずくまってやり過ごすしかありませんでした。一緒に行った友達ともはぐれてしまい、すごく怖かったです。本当に「死ぬかもしれない」と思いました。

 

スノーボードをする中島さん。カッコイイ!

後日、その頃アルバイトしていた放送局で、気象予報士が天気解説しているところを近くで見る機会があったんです。そこで、「天気って予測できるんだ!」と実感を持って気づかされました。「知識があれば、わざわざ吹雪で怖い思いをしなくても、絶好のコンディションのゲレンデに行けるんだ」と思い、天気予報の勉強をしてみることにしました。

 

そんな体験があって、気象予報士を目指し始めたんですね!

 

 

「やりたい、挑戦したい」と自発的に思ったのは初めてだったんです。私は経済学部に所属していて、気象予報は全くの畑違いだったのですが、急に興味が湧いて、「もう、やるしかない」と思いました

 

私は数学がとても苦手で、高校生の時に挫折したきりだったのですが、気象予報士になるためだったら高校の教科書をもう一回やり直してでも苦手を克服したいと思いました。

 

その時の熱意と勢いが伝わってきます…。気象予報士の資格取得を目指しながら、就職活動をされていたのですか?

 

 

はい。もともと大学卒業後は放送局で働きたいと思っていたんですよ。なぜって…GLAYに近づきたかったから(笑)。

 

でもアルバイトで配属されたのは、バラエティーや音楽には無縁の報道部でした。それでも、ニュースが発生してからどのように展開し変化していくのかを追いかける中で、世の中の情報が自分の中に降ってくるような感覚が生まれ、だんだんと楽しくなっていったんです

 

就職活動を通して、やっぱり「ニュースに関わりたい」と考え、記者、アナウンサー、気象予報士の3つを一旦全部目指してみることにしました。当時のアルバイト先はそれぞれの仕事を間近で見られる環境で、とても恵まれていたと思います。

 

ただ、「何を伝えたいのか」という答えは見つけられないままでした。とある局アナ試験の面接で「あなたは何を伝えたいの?」と聞かれたとき、ふと思い出したのは、気象予報士の勉強が楽しいということでした。思わず「天気予報を伝えたいです」と答えたところ、「アナウンサーじゃなくて気象予報士の方が向いているんじゃない?」と言われてしまって。その一言で、気象予報士一択になりました。

 

それ以降、局アナ試験を受けるのはやめることにしました。

 

迷いながらも自分の思いに従って進み続け、進路を決めていったのですね。

 

「楽しくて仕方ない」空に恋した気象予報士の下積み時代

 

気象予報士の資格はすぐに取ることができたのですか?

 

 

気象予報士試験は、2年かけて4回受験しました。物理数学の基礎、天気予報に関する専門知識、それと実技試験の3つに分かれています。この実技試験が難しくて、私はこれになかなか合格できないという状況でした。そんな中で就職活動も続けていました。

 

そうだったのですね。それでも大学卒業の時期はやってきますよね。

 

 

はい。卒業後は、予報技術研鑽のために夜間の専門学校に通いながら、民間の気象情報会社にアルバイトとして入社しました。

 

専門学校に通いながらアルバイト…どんな日々でしたか?

 

 

アルバイトではテレビ朝日の朝4時台の番組制作に携わっていて、深夜の朝1時か2時に出社するんですよ。それまでの時間を使って夜間の専門学校に通い、昼間に仮眠を取る生活を送っていました。とはいえ、お昼にロケが入ることもあり、全く寝られない日もありましたね。

 

そんな忙しい下積み生活を2年ほど続けましたが、仕事も勉強も楽しくて、毎日ドキドキして、日々があっという間に過ぎていきました。

 

テレビでお天気コーナーを任される気象予報士さんになるためには、たくさんの下積みが必要なんですか?

 

 

車の免許をイメージしてみてください。免許を取ったばかりの人が、一人きりで一般道を走るのは怖いし危ないです。運転に慣れるまでは、既に車に慣れている人についてもらって練習することが大事ですよね。

 

それと同じで、気象予報士の資格を取っただけで独り立ちするのは怖いものです。自分の予報に不安を抱えながら現場に出てしまうと、視聴者の方に不安な印象を与えてしまいます。ですから、気象業務や言葉の使い方、伝え方について教えてもらい、基礎ができるまで練習する期間が必要だと思っています。

 

私自身、最初に出会った気象会社で過ごした時間は、今でも宝物です。優秀な気象予報士に囲まれ、たくさん教えてもらいながら勉強できたことは、幸せなことだったなと思います。

 

 

東日本大震災と西日本豪雨で

 

最初の会社で経験を積んだあとはどうされましたか?

 

 

キャリアアップのために転職し、あちこちに行きました。

 

東日本大震災が起こったのは、千葉県の幕張で仕事をしているときでした。午後の天気予報の解説が終わり、夕方のニュース原稿について会議をしている時、震度5強の揺れが3分ほど続きました。天井が落ち、壁にひびが入り。埋立地の液状化で外は水たまりだらけ。電信柱や信号機も傾いて、あちこちで停電が起こり…テロでも起こったのかと思うくらい悲惨な状況でした。

 

災害発生後、報道の現場はどんな状況だったのですか?

 

 

当時私は契約社員で、会社の正式な社員ではなかったんですよ。アルバイトや契約スタッフたちは「自分の身を守ることが最優先」だと伝えられ、報道の仕事にはほとんど関われませんでした

 

社員の人たちは、各地の放送局と連絡を取り合い、対応に追われていてとても大変そうでした。いつか自分も力になれるよう、社員の人たちの動きを見ておかないとと思ったのですが、地震の翌日には家に帰されてしまって…。そこからはもう会社に行くことはありませんでした。

 

その時、どんな心境でしたか?

 

 

結婚したばかりだったこともあって、自分とこれから増える家族をどう守るかということを考えていました。放射能が出るのは想定外だったので不安も大きく、ニュースばかり見ていましたね。どうすることもできず、ただ見ていることしかできないという無力感や焦りもありました。

 

その後、西日本豪雨も経験されていますよね。

 

 

はい。NHK岡山局に移り、気象コーナーを立ち上げてすぐのことでした。

 

実は、豪雨の3日ほど前から、大変な大雨になることがわかっていたんです。「こんな大雨になる予想天気図、見たことがない」と思って、ずっと胸騒ぎがしていました。

 

災害の後も、私はスタジオにいて天気予報をしないといけません。被災地に駆けつけてお手伝いすることも、記者さんのように現地の声を拾うこともできませんでした。もちろん天気予報も大切なお仕事ですが、渦中にいる人たちはテレビなんて見られないじゃないですか。

 

私はどこに向かって天気予報をしているんだろうかと、無力感やら葛藤やらすごく苦しい気持ちでした

 

 

西日本豪雨災害は、甚大な被害をもたらした。

災害時に思うように動けず、無力感や焦りがあったのですね。

 

 

はい。でも、今は少し違います。確かに非常時にはスタジオにいて、災害報道や防災点検をやらなきゃいけないことに変わりはありません。でも今は、平常時に地域住民の人に災害時の行動や心構えについて具体的に伝えていくことができるようになりました。いくつかの災害を経験して、防災について多く学び、具体的な防災解説やアドバイスができるようになったからです。

 

災害でやりきれない思いを感じてから、すぐ気持ちを切り替えて行動されたのですか?

 

 

いえいえ、ずっと引きずっています。だからこそ、どうすれば仕組みが変わるのかずっと考えています

 

水害の時、自衛隊の救助が間に合わず、水浸しの家に取り残されている人たちを、エンジン付きゴムボートを持っている一般の人たちが自力で救助活動を行ったというニュースがありました。それを見て、「ああ、私もこれくらいできないとだめだよな」と思い、船舶免許を取りました。

 

ほかにも、自分にできることを増やしたいと思い、防災士や気象防災アドバイザーの資格を取得するなど、いろいろな勉強をしました。

 

そして今年になって、資格を活かして「絵本を書こう」と思うようになりました。住民一人ひとりと行政をつなぎ、日本の防災のあり方が変わって行けばいいなと思っています。

 

そうして今の中島さんにつながっていくんですね!

 

もうやめたいと思っても、今は人のために。

 

防災の仕組みについて変えていく中で、中島さんが目指していることはありますか?

 

 

私は昔、「誰よりも予報が上手な日本一の気象予報士になりたい」と思っていました。でも今は日本一ってなんだろうと考え直しています。どれだけ勉強しても研究者には適いませんし、全国放送の大きなニュース番組に出ることが日本一なのかもわかりません。

 

ですから、最近は自分自身が満足できるかたちを見つけたいと思っています。専門性を磨いて、個人の方に適切な情報を届けられるよう努力することが、今の私の目標です。

 

これまでたくさんの努力をされてきた中島さんですが、どんなことがモチベーションになっていますか?

 

 

「もうやめたい、ここで終わりにしよう」って思う時もありますよ。大好きな天気予報を通して人の命と向き合うのは大変ですし、逃げたいって思うこともあります。世の中で、自分の仕事を心から楽しんでいる人はどれくらいいるのでしょうね

 

大学を卒業し、勉強しながらアルバイトしていたころはとにかく”楽しい”しかなかったんです。空を見るのが大好きだったから、仕事とプライベートの境目なんてありませんでした。でも今は少し違います。子供が生まれたことで価値観が変わりました。今の私の原動力は、「経済力を得て、大事な娘を守りたい」という思いです。

 

私は20代の時、楽しいことだけを選択し、自分のためだけにたくさん時間もお金も使いました。もう充分です。「これからは人のために生きよう」と思っています。

 

楽しいことばかりじゃないけれど、「人のために」という思いが今の中島さんを支えているんですね。

 

若者へ「ゴールなんてない、迷えばいい」

お話ありがとうございました。引っ込み思案だった中島さんが自分のやりたいことを見つけ、悩みながら突き進んでいく様子を聞かせてもらえて、とても勇気がもらえました。最後に、中島さんから若者へのメッセージをお願いできますか。

 

気象予報士を目指しているときは資格を取ることがゴールだと思っていました。でもいざゴール地点に立ってみると、その先にも世界は広がっていて、また新たなゴールや目標が見えてきました。

 

それは受験でも就職でも結婚でも同じ。人生にゴールなんて永遠になくて、たどり着いたと思ったらまた新しいことが始まる、その繰り返しなんだと思います。だから、たくさん迷っていいと思います

 

それともう一つ。今見据えているゴールの少し先が見えていれば、そのゴールはあくまでもステップの一つになりますよね。例えば就職活動で言うと、「仕事に就く」というゴールの先に、どんな仕事がしたいのか、どんな自分になりたいのか、それを考えてみると少しだけ気持ちに余裕が持てるのではないでしょうか。

 

ありがとうございます。なんだか少し気が楽になりました。ゴールの少し先を意識して頑張ってみます。中島さん、今日はありがとうございました!

(編集:横山麻衣子/執筆:有澤 可菜)

 

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