「やりたいこと」や「興味のあること」がはっきりしている人を見ると、正直うらやましいと思う。自分はどうして世の中のことに興味が持てないんだろう。
でも、それはまだ「出会っていないだけ」なのかもしれません。
今回お話を伺ったのは気象予報士の中島望さん。その生き方には、経験の中で模索しながら自分の可能性を広げていくためのヒントが詰まっていました。
目次
中島さんのお仕事
★中島望(なかしま のぞみ)さん
★いぶきさん

天気予報と、あなただけの防災絵本


全国放送では「北日本」や「東日本」など広いエリアのお天気の傾向をお伝えするのですが、地域放送ではその地域に特化した、よりきめ細やかな情報をお届けするのが役目です。
天気や災害のかたちは、山や川といった地域ごとの地形によって大きく変わるんですよ。私はお天気が大好きなので、そうした地域ごとの特性を細かく見ているのが楽しいんです。

放映時のクロマキー合成のため、撮影中はこんなご様子。(特別にシェアしていただきました〜!)
私は気象キャスターのほかにも、講演会活動をしたり、絵本を書いて広める活動をしたりしています。





絵本にした理由は、一番分かりやすく情報を伝える方法だと思ったからです。この絵本を一家に一冊置いてもらえば、「災害時自分がどうすればいいかわからない」と感じてしまう状況を変えられるんじゃないかなと。



体験会の一コマ。


それに、少しでも不安感があるとパニックになりやすく、適切な判断が難しくなります。安心感を持つことで救える命があると私は思っています。

中島さんのこれまで
音楽との出会い、自我の目覚め


ただ、小さいころから楽器が好でブラスバンド部に入ったのですが、そこではたくさんおしゃべりができました。

最初は一人で細々と練習をしていたのですが、中学のブラスバンド時代の友達が「一緒にバンドを組もう」と誘ってくれて、ストリートライブなどを行うようになりました。その友達が引っ張ってくれたおかげで、いろいろな経験ができました。この子は今でも親友です。 もともと世の中に関心を持つことが少なかったのですが、音楽に触れて歌詞を読むことで、社会や人々のことに目を向けるようになりました。音楽って、音だけじゃなく言葉にも力があるんです。




でも、大学生の時期はやっぱり社会に出るための練習期間だと思うので、そういう経験も含めて大切な時間だったんじゃないかなと思っています。
吹雪に遭い、気象予報士を志す


その日は新潟の湯沢というところにいました。新潟にはたくさんのゲレンデがあり、山の斜面で風の当たり具合が変化し、天候が大きく変わるんですよ。当時の私にはそんな知識がなくて、吹雪の激しいゲレンデで滑ってしまっていました。
そんな中ホワイトアウトが起こり、視界はほとんどゼロに。すぐ近くのリフトも見えないくらいの吹雪でした。板の上に立っているのもやっとな初心者の私は身動きが取れなくなり、その場にうずくまってやり過ごすしかありませんでした。一緒に行った友達ともはぐれてしまい、すごく怖かったです。本当に「死ぬかもしれない」と思いました。

スノーボードをする中島さん。カッコイイ!
後日、その頃アルバイトしていた放送局で、気象予報士が天気解説しているところを近くで見る機会があったんです。そこで、「天気って予測できるんだ!」と実感を持って気づかされました。「知識があれば、わざわざ吹雪で怖い思いをしなくても、絶好のコンディションのゲレンデに行けるんだ」と思い、天気予報の勉強をしてみることにしました。


私は数学がとても苦手で、高校生の時に挫折したきりだったのですが、気象予報士になるためだったら高校の教科書をもう一回やり直してでも苦手を克服したいと思いました。


でもアルバイトで配属されたのは、バラエティーや音楽には無縁の報道部でした。それでも、ニュースが発生してからどのように展開し変化していくのかを追いかける中で、世の中の情報が自分の中に降ってくるような感覚が生まれ、だんだんと楽しくなっていったんです。
就職活動を通して、やっぱり「ニュースに関わりたい」と考え、記者、アナウンサー、気象予報士の3つを一旦全部目指してみることにしました。当時のアルバイト先はそれぞれの仕事を間近で見られる環境で、とても恵まれていたと思います。
ただ、「何を伝えたいのか」という答えは見つけられないままでした。とある局アナ試験の面接で「あなたは何を伝えたいの?」と聞かれたとき、ふと思い出したのは、気象予報士の勉強が楽しいということでした。思わず「天気予報を伝えたいです」と答えたところ、「アナウンサーじゃなくて気象予報士の方が向いているんじゃない?」と言われてしまって。その一言で、気象予報士一択になりました。
それ以降、局アナ試験を受けるのはやめることにしました。

「楽しくて仕方ない」空に恋した気象予報士の下積み時代






そんな忙しい下積み生活を2年ほど続けましたが、仕事も勉強も楽しくて、毎日ドキドキして、日々があっという間に過ぎていきました。


それと同じで、気象予報士の資格を取っただけで独り立ちするのは怖いものです。自分の予報に不安を抱えながら現場に出てしまうと、視聴者の方に不安な印象を与えてしまいます。ですから、気象業務や言葉の使い方、伝え方について教えてもらい、基礎ができるまで練習する期間が必要だと思っています。
私自身、最初に出会った気象会社で過ごした時間は、今でも宝物です。優秀な気象予報士に囲まれ、たくさん教えてもらいながら勉強できたことは、幸せなことだったなと思います。
東日本大震災と西日本豪雨で


東日本大震災が起こったのは、千葉県の幕張で仕事をしているときでした。午後の天気予報の解説が終わり、夕方のニュース原稿について会議をしている時、震度5強の揺れが3分ほど続きました。天井が落ち、壁にひびが入り。埋立地の液状化で外は水たまりだらけ。電信柱や信号機も傾いて、あちこちで停電が起こり…テロでも起こったのかと思うくらい悲惨な状況でした。


社員の人たちは、各地の放送局と連絡を取り合い、対応に追われていてとても大変そうでした。いつか自分も力になれるよう、社員の人たちの動きを見ておかないとと思ったのですが、地震の翌日には家に帰されてしまって…。そこからはもう会社に行くことはありませんでした。




実は、豪雨の3日ほど前から、大変な大雨になることがわかっていたんです。「こんな大雨になる予想天気図、見たことがない」と思って、ずっと胸騒ぎがしていました。
災害の後も、私はスタジオにいて天気予報をしないといけません。被災地に駆けつけてお手伝いすることも、記者さんのように現地の声を拾うこともできませんでした。もちろん天気予報も大切なお仕事ですが、渦中にいる人たちはテレビなんて見られないじゃないですか。
私はどこに向かって天気予報をしているんだろうかと、無力感やら葛藤やらすごく苦しい気持ちでした。


西日本豪雨災害は、甚大な被害をもたらした。




水害の時、自衛隊の救助が間に合わず、水浸しの家に取り残されている人たちを、エンジン付きゴムボートを持っている一般の人たちが自力で救助活動を行ったというニュースがありました。それを見て、「ああ、私もこれくらいできないとだめだよな」と思い、船舶免許を取りました。
ほかにも、自分にできることを増やしたいと思い、防災士や気象防災アドバイザーの資格を取得するなど、いろいろな勉強をしました。
そして今年になって、資格を活かして「絵本を書こう」と思うようになりました。住民一人ひとりと行政をつなぎ、日本の防災のあり方が変わって行けばいいなと思っています。

もうやめたいと思っても、今は人のために。


ですから、最近は自分自身が満足できるかたちを見つけたいと思っています。専門性を磨いて、個人の方に適切な情報を届けられるよう努力することが、今の私の目標です。


大学を卒業し、勉強しながらアルバイトしていたころはとにかく”楽しい”しかなかったんです。空を見るのが大好きだったから、仕事とプライベートの境目なんてありませんでした。でも今は少し違います。子供が生まれたことで価値観が変わりました。今の私の原動力は、「経済力を得て、大事な娘を守りたい」という思いです。
私は20代の時、楽しいことだけを選択し、自分のためだけにたくさん時間もお金も使いました。もう充分です。「これからは人のために生きよう」と思っています。

若者へ「ゴールなんてない、迷えばいい」


それは受験でも就職でも結婚でも同じ。人生にゴールなんて永遠になくて、たどり着いたと思ったらまた新しいことが始まる、その繰り返しなんだと思います。だから、たくさん迷っていいと思います。
それともう一つ。今見据えているゴールの少し先が見えていれば、そのゴールはあくまでもステップの一つになりますよね。例えば就職活動で言うと、「仕事に就く」というゴールの先に、どんな仕事がしたいのか、どんな自分になりたいのか、それを考えてみると少しだけ気持ちに余裕が持てるのではないでしょうか。

(編集:横山麻衣子/執筆:有澤 可菜)