みなさんは、“夢中になれるもの”と聞いて何を想像しますか?この記事では、岡山を中心に演奏活動や指導を行うフルーティスト・立石和美(たていしかずみ)さんの、”夢中”を追いかける生き方に触れていきます。
目次
立石さんのお仕事
フルート奏者として演奏活動や教室講師
——立石さんはどんな活動をされていますか?
——これまでの演奏活動で印象的だったのはどんな場面でしたか?
頑張って続けていたらこんなことも起こるんだなって未だに感じています。自分自身は本当に夢のような時間だったし、来てくださった方々もすごくいい表情で帰ってくださったので、この舞台は一生の思い出です。
うまくできないときには泣いたり葛藤したり
——挫折や苦しさなどを感じたことはありますか?
オーディションやコンクールはいっぱい落ちたし、いつも何かしら反省はあるので、うまくできないときには泣いたり葛藤したり。
でも、辞めたいって思ったことは一度もなかったですね。
——「続けよう」という気持ちの源は何だったんですか?
何より、落ち込んでいるのは「フルートを思うように吹けないこと」が原因であって、「辞めたくて落ち込んでる」わけじゃない。だから、自分が思うように吹けたら気持ちは持ち上がってくると思うんです。
楽器を置かないのがいいのかもしれないです。辛くても、フルートを吹いていると楽器が何かを教えてくれる。フルートから逃げることだけはしなかったんだと思います。それは今でも一緒ですね。
——逃げない強さは大切ですね。
私は自分を追い込まないとできないタイプなので、必ず次を作るようにはしてます。「まだ次があるからやらなきゃいけない」っていう状況にして、辞める隙を与えないのも1つの手かもしれません。
子ども一人一人のタイミングを見計らう
——音楽教室のレッスンでどんなことを意識されていますか?
——教え方で意識されていることもありますか?
でも、今はタイミングが来るのを待てるようになったかなって。「来た!」と思ったら、その瞬間にシュッとエンジンをかけるというか、狙うんです!!
たくさんの生徒を見ていく中で、「今、言おうかな」と感じたりしながら、タイミングを見計らいます。その辺りは大人になってきたのかもしれませんね。
立石さんの脳内
脳内グラフとは、立石さんの頭の中を垣間見て、その割合を数値化したもの。どんなことを日々考えているのか聞いてみたいと思います。
フルート 60%
レッスンと自分の練習の割合が同じじゃないと、どっちもうまくいかないっていうのがあって。それぞれの活動を通して感度が上がったり、アイデアの引き出しが増えたりするのを感じます。フルート奏者としてやりたいことをやっていくというのでフルートが60%ですね。
——将来はどんなことをやりたいと考えていますか?
そして、指導の面でも、生徒の中から世界に通用する次世代のフルーティストが誕生するというのも、もう一つの大きな夢です!演奏と指導、どちらも一生追及していきたいですね!
食べ物 10%
今日のこと 10%、明日のこと 10%
アンテナ 10%
立石さんのこれまで
第1章 「やってみたい」から始まった音楽人生
私が最初に音楽と出会ったのは、6歳の時に習ったピアノでした。その頃は、ただ「やってみたい」の一心で始めたんだと思います。「音楽をやってる」という意識があったので、小学校のクラブ活動ではアンサンブルクラブに入ったり、合唱の伴奏に立候補したりしていましたね。
「とりあえず人と違うことをしたい」っていうのが昔からあって、目立ちたがりでした。
第2章 中学生、フルートとの出会い
中学では吹奏楽部に入ることにしたんですが、部室に行ったとき、フルートがすごく上手な先輩がいたんです。それに、フルートはピッコロっていう楽器も一緒に担当するので、「フルートを吹けるようになれば楽器が2本も吹けるようになるんだ!」と欲張ってしまいまして(笑)
部室に行くまではフルートの存在も知らなかったし全く興味もなかったんですけど、先輩の音が本当に綺麗だったので、「あ、私フルートやりたい!」と思うようになりました。これが、私とフルートとの出会いです。
当時は、フルートが「好き」というよりも「知りたい」っていう感情が強くて、夢中で練習していました。負けず嫌いだったので、ソロがあったら全部吹きたかったんです。そのためには上手くなるしかないので、練習したり本を読んだりして、自分なりに理解してやっていました。
第3章 高校生、仲間との出会い
3年間フルートをやって、「高校では一般教養よりも別のことを勉強したい」って思ったんです。一度始めたら突き詰めたい気持ちもあったので、フルートを上達させるために音楽が勉強できる高校に行こうと決めました。本格的にフルート人生がスタートしたのは高校からだと思います。
高校に入ってからは、勉強が大変でしたね。「みんなこんなに知ってるんだ」って衝撃を受けました。色んな作曲家や音楽関係の話が出てきても、私は全然知らないことばかりで。私はただフルートがやりたくて入っただけだったので、皆よりも情報や知識量が少なかったんです。そこからは「聴いたものは全部1回で覚えよう」と思って、色んな本やCDに触れました。練習の他に、知識の習得も興味を持ってやってた記憶がありますね。
高校時代に知り合った仲間とは、今でも定期的に演奏会を開いて交流しています。音楽は競い合う面もあるので、仲間同士でピリピリすることもあるんですけど、みんな音楽が好きで真剣に向き合ってるし、互いの良いところを認め合っていたんです。そういう仲間と過ごせた高校時代は、すごくありがたかったなと思います。
第4章 大学生、フルートと地元を見つめ直す
大学は、関東の音楽大学に進みました。音大の受験は少し特殊で、自分が習いたい先生にアポイントを取って、試験を受けるんです。高校の先生や当時習っていたフルートの先生に相談して決めました。
このとき初めて東京に出たんですが、やっぱり東京の方がコンサートの回数が多く、レベルの高い人が集まってるなと感じました。日本や世界のトップレベルの人たちの演奏が身近で聴ける、最高の環境。そうした環境で学べたことはやはり財産です。
あと、初めて岡山に帰省した時、電車の中が方言だらけでびっくりしました!東京に出たからこそ分かる岡山の良さもあるんだなって。他を知らないと気づけないことってありますよね。
第5章 大学院、自分の将来を見据えて
大学時代は、演奏の勉強をしながら音楽の教員免許もとっていました。でも、もっとフルートを習いたくなって、大学院に進むことにしました。欲深いですね…(笑)
師事したい先生がいて大阪に行ったんですが、大学院修了間近になるとやっぱりまたフルートをやりたくなったんです。学校の制度を使いながら、月に数回だけ岡山から大阪に通う形で、憧れの先生に指導してもらっていました。当時は、学生として勉強をしながら、少しずつフルート教室の先生もやってましたね。
一度大阪から岡山に戻った時点で、将来は岡山で働いたり演奏活動したりするのかなっていう覚悟は少しありました。私が岡山に帰っているうちに東京での地盤もなくなっていくだろうし、もう一度行くのは難しいだろうなと感じていたので。でも、東京と大阪での経験や人脈は音楽教室の生徒が「東京や大阪に行きたい」って言った時に活きてくるので、外に出て良かったなと思っています。
第6章 社会人、憧れの演奏家と先生になる
今は演奏活動をしながら、音楽教室の講師としてと自身のプライベートの教室でフルートを教えています。実は、昔から音楽に関わらず先生に憧れていました。私が先生に恵まれていたこともあると思うんですけど、今まで出会った先生が本当に尊敬できる方々だったんです。
そういう大人になりたいというか、「ああ、先生ってなんかかっこいいな、いい職業だな」って何となく思っていました。私自身も、生徒に教えるときは「皆が持っている“いいもの”を活かしてあげたいな」っていう思いが一番にありますね。
第7章 「魔法の笛」が運ぶ出会いと共に
気がつけばもう人生の半分以上がフルートになったんですよね。今関わっている方々は、フルートがなかったら出会わなかった方々かなって思っています。私の出会いのもとというか、生きがいでもあり、人生そのものです。
フルートはよく「魔法の笛」って言われるんですが、本当にその一言かもしれないですね。色んなものを運んでくれる存在だなって。一生付き合っていけるものだし、一生打ち込めるものに出会えて良かったなと心から思っています。
(編集:森分志学)