バンドを組んだり、吹奏楽部に入ったりして、音楽をやっている人も多いですよね。とは言え、音楽のプロとして生きていけるのは、ほんの一握り。この記事では、ドイツを始め、世界各地でプロのベーシストとして活動されてきた東川聖大さんの生き方に触れていきます。
目次
東川さんのお仕事
ベーシストとしてヨーロッパをめぐる
——東川さんはどんなお仕事をされてますか?
——日本での活動はどんなことを?
音楽に関係がないようであっても、活かせるかどうかはその人の力量次第だと思っています。僕はそこから学べることがあれば、音楽に活かしていきたいなと思っています。
子どもから学ぶことも多い
——子どもが好きだったんですか?
考え方や発想は、若ければ若いほど縛りがない。大人になっていくと、いろんな条件によって縛られていて、発想が少しずつ固められていく。子どもたちを見たり触れ合っていると、固定概念がなくて、学ぶところが多いなと感じます。
——子どもたちと関わるうえで大切にしていることは?
そうないと、子どもたちがオープンに話せない。その甲斐あってか、女の子たちには「近寄らないで」なんて言われるくらいです(笑)そう言われているのも、ガードが崩れているなと自覚できます。
東川さんの脳内
脳内グラフとは、東川さんの頭の中を垣間見て、その割合を数値化したもの。どんなことを日々考えているのか聞いてみたいと思います。
音楽 95%
例えば、子どもたちと関わっている中で気づいたことは、日本には音楽のランキングがあるように、子どもたちにもランキングがつけられているのではないかということです。ランキング上位の子が、ランキング上位の音楽を聞くと、みんながその音楽を聞き出す。そうした流れが、子どもたちにどのような影響を及ぼすのか。
そんなふうに、日々の生活の中でも音楽のことを常に考えています。
——日本の音楽についてどう思いますか?
音楽の深さと言うのは、歴史に残ってきたほど深いものです。海外では、音楽は文学の一部として扱われているけど、日本ではエンターテイメントのひとつでしかない。残念な気持ちになるとともに、なぜそうなってしまったのかを日々考えています。
やりたいこと・やらないといけないこと 5%
東川さんのこれまで
第1章 ベースとの出会い
僕が小学生の頃、全盛期だったX Japanの影響で兄がベースを始めました。でも、ベースって音が低いし、主旋律を演奏することも少ないので、兄はギターに移行しました。その時、一人で弾くのもつまらないから、お前もやれよって、ベースを渡されて。
それがベースを始めたきっかけです。それからは趣味程度に続けていました。
第2章 ニュージーランドの高校に入学
中学に進学しても、ベースを続けていました。バスケ部で副キャプテンも務めていて、ベースとバスケの毎日だったので、勉強の時間がどんどん減っていきました。
中学3年生の三者面談で、先生に「そんなんじゃ高校に行かせない」と言われて、僕も反抗期真っ盛りだったので「じゃあ行かない」と言ってしまいました。
そんな時、たまたま母が知り合いから留学のパンフレットをもらってきて、おもしろいんじゃないかと思って、すぐにニュージーランドへの留学を決めました。それが、卒業2週間前の出来事です。
それまで勉強なんて全くしていませんでしたが、学年末テストで英語だけは勉強しました。卒業してすぐにホームステイが始まったのですが、勉強したはずなのに一言もしゃべれなかったです。それからは英語の勉強の日々でした。
最初の1年半くらいは、友達もなかなかできなくて。バスケのクラブに見学に行ったりもしましたが、やはり海外の人たちとの体格差では、到底かないません。何をしていこうか迷いました。
第3章 音楽人生スタート
そんな中でも、ベースだけはよく練習していました。ある日、練習しているときにたまたま覗きに来た先生がいて。その先生はニュージーランドでも有名な音楽の先生でした。
「上手いね、レッスン受けたら?」と声をかけてくださって、特別レッスンを受けさせてくれるようになりました。「君、音楽でやっていった方がいいよ」と言ってくれて。その先生が、僕の音楽人生の出発地点のテープを切らせてくれたんです。
それからは、音楽漬けの日々。「英語さえしゃべれるようになれば、他の教科はやらなくていい。もっと音楽に集中してやっていい。」と言ってもらえました。その先生のつながりで、大学の先生を紹介してくれて、授業中に抜けて、ベースのレッスンを受けに行ったりしていました。そのおかげで、音楽に深いところまで学べたと思います。
第4章 アメリカの有名音楽大学に入学
音楽漬けの日々のおかげで、音楽大学の短期コースに入学できました。そこで音楽理論などを学んだ後、アメリカの有名音楽大学に入学したのですが、奨学金が出せないと言われてました。「入学前と話が違う、、」と悩んでいたら、その大学のベースの先生が「僕のやっている授業は無料で受けていい」と言ってくれたのです。他の知り合いの先生にも話をしてくれて、授業料を免除してもらって、勉強し続けることができました。
この頃、学校の勉強が楽しくて仕方がありませんでした。毎日ギリギリまで学校に残っていました。でも生活はいっぱいいっぱいで、ランチは毎日にんじん一本でしたね。
第5章 世界でプロとしての活動を始める
大学の先生に「もっといろんな世界を見たほうがいい」とアドバイスをされたこともあって、大学を休学して世界中をまわることにしました。日本で資金集めをした後、イギリス、フランスへ。
最終的には、音楽の場がたくさんあるドイツに拠点を置き、10年間そこで音楽活動をして過ごしました。国が変わるごとに履歴書が毎回リセットされるような感覚でした。毎回一からのスタート。
一番活動が長かったドイツでは、だんだんと横のつながりもできて、自分の名前も広がっていきました。固定のバンドを持とうと思って、日独混合バンドに参加しました。最初の頃は「邪魔だからステージの横で弾いてくれ」なんて言われていましたが、少しずつ認められて、演奏するステージがどんどん大きくなりました。
最終的には、Eurovision Song Contest(ユーロビジョン・ソング・コンテスト)と言う、日本でいう紅白歌合戦のようなコンテストにも出ることができて、お客さんの反応が目に見えて変わっていくことを実感できました。
第6章 「夢は叶えられる」を伝える
小学生の頃の卒業式のアルバムに、みんなの夢を寄せ書きするページがあって。「ミュージシャンになって、海外に行って、テレビに出るくらいに有名になる」と僕は書いてたんです。振り返ると、自分の持っていた夢を全て叶えたなと。
そういう経験もあって、夢を叶えることの大切さというか、夢は実現可能なんだってことを子どもたちに伝えたいなと思います。子どもたちと話していると、夢を持っていない子が過半数です。どれだけ大きな夢だと感じても、その夢を持てた時点で、実現できることだと思ってほしいです。
(編集:森分志学)
そんな中、参加しているバンドがドイツでメジャーデビューすることになりました。VIPが集まるレセプションパーティーで演奏するなど、活動の幅が広がりました。コロナの影響もあって、日本に一時帰国しました。