東京から移住した和気町を拠点に、デザインをはじめマルチに活躍する下鳥誠さん

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公開日 2025.09.25

幼少期から「協調性がない」と言われてきた下鳥誠さん。中学生になると文章の理解が難しくなり、授業についていけず苦労してきたといいます。

 

しかし、その後さまざまな分野の仕事を経験し、試行錯誤を重ねるうちに、自分の特性を客観的に捉えられるようになりました。発達障害と向き合いながら歩んできた下鳥さんのお話から、「自分らしく生きること」のヒントを探ります。

下鳥さんのこれまで

★下鳥 誠(しもとり まこと)さん

和気町内の家具店に勤めながら、デザインの個人事業を営む。小学校時代から周囲から変わっていると言われてきて、社会人になってからADHDと診断。

 

★松田さん

岡山県内の大学に通う3回生。周りの空気に馴染めない自分に対して悩んだり、迷ったり。人生のヒントを求めて体当たりインタビューに挑戦中。

 

協調性がない・話を聞けていない・文章がわからない!?

 

現在、下鳥さんがどのようなお仕事をしているのか教えていただけますか?

撮影中の下鳥さん

和気町内の家具店でECサイトの制作・運営を担当する正社員として働きながら、個人事業主としてデザイン・写真・動画制作なども請け負っています。

自宅オフィスでお子さんたちもIT作業

また、その2つの立場をベースにしながら、ADHD当事者としての経験を活かして、同じような立場の人たちに向けて情報を発信する活動も行っています。

 

ご自身の特性をどのように仕事に活かしているのか、とても興味があります。下鳥さんはご自身の発達障害とどのように歩んできたのでしょうか。

 

小学生の頃から、通信簿には「協調性がない」と書かれていました。今思えば、それはADHDの特性の一つだったのでしょうが、当時はそんなことは知る由もありませんでした。

 

たとえば、先生が「みなさん、◯◯持ってきましたかー?」と授業で声をかけたりしますよね。みんなが「はーい」と手を挙げるのですが、僕には何のことかさっぱり分かりません。話を聞けていないからそうなっていたのですが、「え?僕だけ仲間外れにされてる?」と思いこんでました(笑)

 

本当に耳に入っていなかったんですね……!

 

そんな状態で中学生になりましたが、今度はテスト問題の文章が理解できなくなってきました。文字は読めるけれど、それが文として何を言ってるか分からない。答えを考える以前の話で、今で言う学習障害に近い状態だったのかもしれません。板書を書き写す時も、一文字毎に黒板を確認しながら書くので時間内に終わらなかったり、見返しても意味がわからないものになっていたり……。

 

高校に進学してからも全然勉強はできず、テストをギリギリでくぐり抜けて、なんとか留年を免れるような状況でした

 

勉強以外でも不便なことはありましたか。

 

人間関係もすごく苦手で、周囲のペースとすぐズレてしまうので人とあまり話が合わなくて、孤独でした。そんな中でちょっと話ができる友達ができることもあって、楽しかった思い出も少しはありますが、当時の心境はほとんど地獄にいるような気持ちでした

 

私も中学校時代は成績が悪く、コミュニケーションが苦手でした。変わっていると言われ、孤独感を強く感じていたのでものすごく共感します。他人と比べて劣等感を感じることはなかったでしょうか?

 

劣等感はめちゃくちゃありました。でも、なぜか「本当はやればできるけど、やらないだけだ」と、ずっと思い込んでいました。それで心を保っていたのだと思います。

 

うう……。分かる気がします。高校卒業後の進路は?

 

高校卒業後は商業系の専門学校に進み、大手家電量販店に就職しました。

 

「就活」では困ったことはありませんでしたか?

 

ありましたよ。就活では3社にエントリーしましたが、2社は面接の時間に間に合いませんでした。ですが、唯一間に合った1社に合格して就職が決まりました。

 

遅刻はADHDの特性としてよく挙げられますが、「面接に強い」というのもADHDあるあるらしいです。だから、面接までこぎつけてしまえば、受かる確率がかなり上がる。これは、その後の経験からも実感しています。

 

なぜ面接になるとうまく振る舞えるのでしょうか。

 

ADHDの特徴として、注意散漫になったり、ぼんやりしてしまったり、逆に過集中してのめり込んでしまうことがあるらしいのですが、面接のような状況では後者の過集中が強く出やすいようです。人と対面するとドーパミンが分泌されやすくなり、興奮状態に陥ることで脳が正常に働き始めるのかもしれません。集中力が高まる感覚があります。

 

いつもは“不具合”のような状態の反面、そういう場面ではパフォーマンスが発揮されやすくなるのかもしれません。

 

なるほど。一人ひとりの持つ特性の裏には科学的な仕組みがあるかもしれないのですね。

保育園時代の下鳥さん(画像左)

 

高校時代の下鳥さん(画像中央)

「淡々とこなす毎日」から、デザインの道へ方向転換

就職してから、仕事はどうでした?

 

収入は安定していて仕事も順調でした。でも、入社して4年半ぐらい経った頃、「この先、大変なこともすごい楽しいこともあまりなく淡々と生きるのか」と思ったら、つまらなくなってしまって……。

 

自分が得意なことは人一倍できる反面、「できること」自体がみんなに比べて少なかったのかもしれません。だからか、できることをこなすばかりで仕事の幅が広がらず、繰り返しの日々になってしまっていたのです。

 

そこで、ほかにできる仕事を考えはじめました。このときまで忘れてしまっていたのですが、僕は幼いころから漫画ばかり書いていた少年でした。幼心に「絵を仕事にできればいいな」と心のどこかで思っていたーーそのことを思い出して、「絵」に関わる仕事を調べることにしました。そこで「グラフィックデザイナー」という職業と出会ったのです。

 

それで一念発起して家電量販店を辞め、グラフィックデザイナーの専門学校に行くことにしたんです。

 

その学校ではどんなことを学びましたか?

 

基礎として入学から半年間ぐらいずっとデッサンをした後、グラフィックデザインを一から学びました。グラフィックデザインは、主に広告デザインを作成する分野で、具体的にはポスターやカタログ、パンフレットなどを制作するのですが、もう、めちゃくちゃ楽しかったです。「これだー! これで生きていくぞ!」と思いました。

 

卒業後は、東京の青山にあるデザイン事務所に就職してJリーグチームのポスターを作ったり、大手百貨店のポスターやカタログを作ったり、素敵なお仕事に関われてとても良い経験になりました。

 

下鳥さんが関わったJリーグチームのポスター

下鳥さんが関わった大手百貨店のポスターやカタログ

 

「これで生きていきたい」というものに出会えるって、運命的でいいですね。私はまだ全然それに出会えてなくて探しているところです。ちなみに、デザインのお仕事の中では特性から来る悩みはありませんでしたか?

 

なかったですね。アイディアがいくらでも出てくるので、何かを作り出すクリエイター職がすごく合っていたのだと思います。

 

そうなんですね!反対に、言われたことを淡々とこなすような、厳密な答えのある仕事はあまり合わなかったのでしょうか?

 

ADHDの人は、興味のないことに対して脳がほとんど反応しないと言われています。実験で脳をスキャンすると、その違いがはっきりわかるそうです。一般的な人は、たとえ興味がないことでも、例えば「この書類に目を通してください」と言われれば大抵は脳が働いて情報を処理しようとするのですが……。

 

自分に合う仕事を見つけるには、何に興味を持っているかが重要で、僕は、それが絵やグラフィックなのだとわかりました。

 

楽しかったはずのデザイン業界から、とある専門商社に偶然入社

 

その後もうまくいきましたか?

 

ここで「グラフィックデザイナーでうまくいきました、めでたしめでたし」にしたかったのですが、そうもいかなくて……。

 

実はデザイン事務所に入社してすぐ、ロッカーの上に寝袋があるのを発見していまして(笑)。「あ、長時間働く環境なのかも」という予感がしていました。実際、働きづめで帰れない日もありました

 

長時間働き続けて、仕事ってはかどるものなのでしょうか?

 

本当はちゃんと寝て、すっきりした方が良いものが作れるはずですよ。でも、会社としてそれが日常的でしたし、当時のデザイン会社は大方どこもそうだったと思います。なので、デザインの仕事は楽しかったのですが「普通の時間に起きて、普通の時間に寝たい」と思うようになりました

 

そんな中、仕事で関わったクライアント先から、アルバイトをする機会をもらって、そのまま転職しました。世界中の国々と取引するような、ある製品を扱う専門商社なのですが、すごく稼げるらしいと(笑)。安定した生活と確実な収入に惹かれて入社を決めました

 

ある製品?

 

ミサイルや戦闘機です。防衛商社というのですけど。200万円近くは年収が上がったと思います

 

そんなに!?業務はどうでした?

 

それが、頻繁に仕事でうまくいかないことが起きるようになってしまって。誰でもできないグラフィックデザインはできるのに、誰もができるような書類が作れない。「こんなこともできないのか」と、上司にしょっちゅう怒鳴られていました。

 

それでも「頑張ればできるはずだ」と無理をしてしまい、ひどく苦労しました。今となって言えるのは、他人の評価や自分の中の良い悪いの評価はひとまず置いておいて、これは自分には「できない、向いていない」と「ただ理解する」ことが重要ですね。

 

私は周囲が当たり前のようにできていると、「私だってできるはずだ!」と執着してしまいます。でも、結局できないケースも多くて。「できないことはしない方がいい」という考え方に転換できたのはなぜなのでしょう。

 

上司に怒られ続けたことが悔しく、いろいろな本を読み漁ったことで「成功している人たちは自分の得意なことや好きなことをしている」と気づいたのです。

 

僕自身デザイン事務所では好きなことに向かっていたはずなのに、収入と安定した生活を求めて舵を切った結果、人生そのものが辛くなってしまっていました。「好きなことに邁進する」と「苦手なことを無理して頑張る」、その両方を体験して腑に落ちました

 

再びデザイン業界へ。転職と移住が、運命的なタイミングでやってきた

和気町へ移住後の下鳥さんご家族(画像左が下鳥さん)

やはり好きなこと、得意なことをして働こうと思い直したのですか?

 

はい。自分はやっぱりクリエイターだと思い、改めてデザイナーをしようと考えました。

 

ただ当時35歳で、安定した職業から不安定なクリエイター業へ転身することに、大きな不安がありました。思い切って妻に相談したところ、反対するどころか背中を押してくれたんです。その支えがあったからこそ、今の自分があります。

 

でも、デザイナーを辞めて10年も経つと戻るのも簡単ではありません。当時はスマホの普及が進み、Webデザインが大きく変わりつつある時期だったのでなおさらでした。そこで、商社で働きながら、夜間はWebデザイン学校に通うことにしました。卒業後、岡山県に移住すると同時にWebデザインの仕事に就いたのです。

 

なぜ仕事だけでなく、岡山への移住もセットで決断したのですか?

 

東京の豊洲で結婚生活を送っていたのですが、子どもが生まれたことで不便さやストレスを感じることが多くなっていたんです。マンション暮らしは近隣や階下に気を遣う場面も多く、地下鉄などもベビーカーでの移動には不便。子育てには不向きだと夫婦で感じていました。移住体験旅行までしていたのですが、同じ会社にいては現実的には難しいと保留になっていたのです。

 

東京に住んでいたころの下鳥さんご家族(画像右が下鳥さん)

東京に住んでいたころの下鳥さんとご友人ご家族やご友人(画像一番左が下鳥さん)

しかし、Webデザイン学習後の転職活動で「そうだ!田舎に移住したかったんだ!」と移住への気持ちが蘇り、岡山のweb制作会社の方と出会ったことをきっかけに、転職と同時に岡山へ移住することになったんです。

岡山移住後の下鳥さんご家族(画像左が下鳥さん)

おお!今の下鳥さんの生活に大きく近づきましたね!

 

その後、仕事で和気町を訪れた時に、この穏やかな雰囲気に惹かれて引っ越しました。地元の家具店にWEBデザイナーとして転職し、副業もOKだったので個人事業主としてデザインの仕事もするようになりました。

 

仕事も住む場所も、少しずつご自身に合った場所を見つけていったのですね。音声配信などの”発信者”としての活動はいつごろ始めたのですか?

 

配信を始めたのは、2021年頃です。ちょうどClubhouseが日本に上陸したタイミングで、試しに喋ってみたら人が集まってくれることに気づいたんです。そこから約4年間、ほぼ毎日続けてきました

 

ま、毎日!
オンラインサロンは2024年からスタートしました。発信の内容は、自分自身の体験をベースに、聞いた人が少しでも心が軽くなるような言葉を届けるように心がけています

 

Clubhouseは2025年9月16日現在1678日目の連続配信だそうですが、今後はどんどんYoutubeの配信にシフトされるそうです。下鳥さんのYoutubeチャンネルは、こちらです。

 

同じ悩みを持つ人へーー僕たちは「フォーミュラカー」

Clubhouseのリアル会。普段はSNSのみの集いですがたまにリアル会を開催(左から2番目のライトの前に座っている方が下鳥さん)

 

元マッキンゼーコンサルタントでゼロ秒思考(累計140万部)著者の赤羽雄二さんと対談(画像右が下鳥さん)

下鳥さんのお話を聞いていて、「変わっているね」という言葉の中に可能性が眠っているということが、少しだけ理解できてきました。でも、私の中には、当たり前のことを当たり前にできるーーいわゆる「普通」の人を羨むような気持ちが拭えません。

 

ADHDをはじめ、何らか強い特性を持つ人は、車で例えるならF1の「フォーミュラカー」のようなものです。レーシングカーに、乗用車と同じ性能を求めれば「どうしてこの路地が曲がれないんだ」「なぜ荷物が載せられないんだ」「一人しか乗れないのか」と、不足ばかりが目についてしまいます。

 

フォーミュラカーのエンジンは、これまで進化を続け、世界の技術発展にも貢献してきたはずです。でも、その性能に合った道を走らなければ、本来の力を発揮することはできません。人も、自分の特性に合わない環境で頑張り続けても、力を活かせないことがあります。

 

ADHDが良いとか悪いとかではなく、シンプルに、自分の特性に合う“サーキット”を走るようにすれば、もっとスムーズに活躍できるはずです。だから、決して「普通」を羨む必要はなく、「そのままで大丈夫だよ」と僕は伝えたいです。

 

自分自身に対して肯定的な気持ちを持てるようになったのは、どのタイミングからなのですか?

 

ADHDの特性について知って、それが自分と重なったときだと思います。ある時ふとしたことで知って調べてみると、特徴として挙げられている行動パターンがどれも自分に当てはまるものばかりだったんです。

 

関連書籍を読むと、歴史上の偉人や成功している実業家の中にもADHDの特性を持つ人がいると紹介されていて、「こんなすごい人たちと同じなのかもしれないのか」と嬉しくなりました。もちろんそんな偉人たちと自分の間にはものすごいレベル差があるはずですが、それでも「同じ特性を持つ仲間かもしれない」という思いが、自分に自信を持たせてくれました

 

医療機関には診断を受けに行ったのですか?

 

はい。配信を始めたころ、僕は「ADHD自慢大会※注1」というイベントを主催したのですが、それがきっかけとなりました。

 

(※注1:余談ですが、このイベントは下鳥さんがClubhouseで初めて主催したイベントだそうです。思わぬ大反響で、400日以上続いていくロングラン配信となった上、ADHDの当事者の方はもちろん、『僕の妻は発達障害』の作者・ナナトエリさん夫妻や、社内での人材活用への課題意識を持つ食品メーカー・山本山の山本社長、元マッキンゼーコンサルタントでゼロ秒思考の著者・赤羽雄二さんにもご参加いただいたそうです)

 

そこではみんながADHDにまつわる大失敗エピソードを笑い合って盛り上がったのですが、みんな診断を受けていることに気がつきまして、そういえば自分はずっと自称だったなと(笑)。そこで、「ちゃんと確かめよう」と医療機関を受診することにしました。

 

診断結果は見事にADHDで、さらにIQテストを受けると、能力の高い部分と低い部分の差が35もありました。一般的に、IQの項目の指標が25以上離れると会話が成り立たないと言われています。「なるほど、自分の中で思考と行動がうまく噛み合わないのは、こういうことだったのか」と納得しました。

 

診断を受けに行くとき、もしかしたら「どうかADHDであってほしい」みたいな気持ち、ありましたか?

 

「どうかそうであってくれ……!」と祈るような気持ちでした。自称で配信活動をしていたので、ここまできてADHDじゃないとまずいなと思って(笑)。「ADHDです」と言われた瞬間、「よっしゃー!これで公式に名乗れる!」とガッツポーズしました。

 

下鳥さんの目指す未来

 

既に幅広い活動をされていますが、今後の展望はありますか?

 

なにせ“多動”ですから、いっぱいあります。どんな形になるかわかりませんが、将来的にはADHDの方々を支援したいです。Clubhouseで話した中にも、前向きに生きている方、複数の会社を立ち上げ活躍している方もいれば、ADHDと診断されたことで絶望し、悲観しきっている方もいました。

 

僕自身はどうかというと、自分がADHDであることを誇りにすら感じています「これは特性であり、むしろ褒め言葉だ」と伝えたいのです。ADHDは、能力を活かせる環境さえあれば、突飛なアイデアを出したり特異な能力を開花させたりして活躍できる可能性があるはずです。

 

ですから、まずは発達障害や愛着障害の影響で学校や会社に馴染めず、自ら命を絶ってしまう方をゼロにしたい。その上で、発達障害や愛着障害の方、ADHDの方を社会で活躍できる自信をつけていただき、ご自身もご家族も幸せになってもらいたい。それにより隠れた有能人材が活躍する社会にし、日本の経済発展に貢献、できるだけ多くの人に幸せになってもらいたい。そんな未来を目指しています。

 

また、小学校のPTA会長をしているのですが、多動傾向のお子さんを持つお母さんが困っている話を耳にすることがあります。悩む方々が気軽に相談できたり、支え合えたりするような場を作ることも必要なのかもしれません。

 

ほかにも、もう5年続けていますが、和気町の和気閑谷高校で非常勤講師としてWebデザインを教えていて、これも続けたいですね。

和気閑谷高校での授業風景(前方でプレゼンテーションをしている方が下鳥さん)

さらに、小規模ですが、去年から本格的に自然農法でお米作りも始めたので、農業にもきちんと取り組んでいきたいと考えています。

お米づくりに取り組む下鳥さん

それから、妻が自然の中で子どもたちと遊ぶ活動をしていて、いつか「森の学校」のような場を作りたいとも思っているんです。できるところから、少しづつ形にしたいですね。

 

すごくたくさん!聞いていて、とてもワクワクしました!下鳥さんのお話、自分と重なる部分が多く、自分が憧れるような生き方をしている方が実際にいることに勇気をもらえた気がします。私も前向きに自分の特性を見つめて頑張ります!

桜の下でご家族と記念写真(デニムの帽子をかぶっている方が下鳥さん)

(編集:横山麻衣子/執筆:大島 爽)

 

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