お客さんにお酒と居心地の良い空間を提供するお店、BAR。
この記事では、岡山市でbar.comtoir(バー・コントワール)を営む園田浩也(そのだひろや)さんの生き方に触れていきたいと思います!
目次
園田さんのお仕事
心地の良いBAR空間で楽しんでもらう
――園田さんはどんなお仕事をしていますか?
――「バーテンダー」って何をする人ですか?
大切なところは、バーテンダーはお酒の種類を知っているだけではない点です。お酒の組み合わせや比率を変えることで、お酒の味や香り、色などが少しずつ変わります。細かく言えば、無限に種類が作れます。
僕らのお仕事は、お客様の好みに合わせてお酒を作り、心地の良いBAR空間で楽しんでもらうことだと言えますね。
バーテンダーの専門性は「接客」であることに気づいた
――どうしてバーテンダーになったのですか?
この頃はまだ、バーテンダーはお酒の専門家だと思っていました。のめり込んで行ったのは、バーテンダーの専門性は「接客」であることに気づいてからですね。
おそらく、BARにいてお酒を作っている時間は10%くらい。残りの全ては接客をしています。メニューを聞いたり、会話をしたりだけでなく、お客様に心地の良い時間を提供することに集中しています。ここが本当のバーテンダーのお仕事です。
――大切にしているものはなんですか?
正直、勘が当たっていたかどうかは、どちらでもいいのかもしれないですね。自分の感覚を大切にする、自分を信じることなのかもしれません。
たとえ勘が外れていても、大きな意味においては成功も失敗もありません。世間で言われるような失敗は、取り返せますからね。考えすぎて動けなくなってしまうことはだけは避けたいです。
――接客のコツってありますか?
ご来店いただく頻度で、関係性は深くなっていきます。5回くらいお越しくださった方は、もう一生のお付き合いになりますね。
1度や2度はくらいは来てくださるお客様はいらっしゃいます。しかし、3度目に来ていただけるかは、好みを理解して接客できていたかどうかが問われます。
そのためにも、僕はお一人お一人のお客様を好きになることがコツのように感じています。
園田さんの脳内
脳内グラフとは、園田さんの頭の中を垣間見て、その割合を数値化したもの。どんなことを日々考えていらっしゃるのでしょうか。を聞いてみたいと思います。
100%がバー・コントワール
自分でお店をやっている人ならわかると思いますが、仕事のオン・オフはほとんどありません。たとえお休みの日でも、全てがバー・コントワールにつながっています。僕にとってバー・コントワールは、生きていることと同じ意味であり、自己表現でもあります。だから特別なものではないです。
と言いながらも仕事の時間が終われば、仕事の話は全くしません。営業終了後、反省会のような振り返りはしません。今日は何を食べて帰ろうか、何飲もうかと考えています。
園田さんのこれまで
次に「人生グラフ」を作ってみたいと思います。生まれてから今日まで、さまざまな出来事があったと思います。それによって、ご自身の気持ちの上がり下がり、運気の上がり下がり、良いとき悪いときがあったのではないかと。どの指標でお答えいただいても結構です。これまでどんな人生を歩んできたのか、聞かせてください。
第1章 人生の黄金期から一転
僕は野球少年でした。小学校ではピッチャーで4番、しかもキャプテンでした。僕一人で野球をやっている感覚でした。もちろん、プロ野球選手になるものだと思っていました。
中学生になっても、高校生になっても、野球の毎日でした。黄金期は続いていましたが、高校生になると様相が変わってきます。自分よりうまい同級生が現れます。
当たり前のように、みんな努力をします。初めてのことに僕は愕然として、野球をやめてしまいます。
投げ出してしまった僕は、あんなに好きだった野球も野球をしている人も嫌いになりました。
それまで野球しか知らなかった僕は、女の子とおしゃべりすることが楽しくなり新しい世界を知りはじめます。
第2章 BARでアルバイト
野球をやめた後、BARでアルバイトを始めました。
高校生だった僕には、BARで出会う大人たちがみんな興味深く、新鮮な感覚を味わえる時間でした。この大人は何している人なのだろう、どんな人なんだろうと観察をしていました。
またこの頃から、お酒の歴史にも興味を持ち始めました。学校でも歴史の授業は好きだったこともあり、一つ一つ知識が増えていくことは楽しかったですね。例えば、スコッチ・ウイスキーは、イングランド北部のスコットランドで造られるウイスキーの呼び名です。スコットランドの蒸留所によっても細かい違いがありますし、それぞれに歴史があります。
第3章 専門学校からホテル業界へ
卒業後は、旅行の専門学校に進学します。
この専門学校では、多くの卒業生はツアーコンダクターになるようです。
僕はホテルに就職を決めます。選んだのは、沖縄のホテル。
冬の寒さが苦手で、岡山に住んでいても寒く感じていました。単純ですが、暖かい沖縄に行こうと思ったのです。今では考えられないような就職活動です。
直接ホテルに働けませんかと電話をします。約20件に電話してご縁を頂けたホテルで働くことになりました。
第4章 沖縄修業
内定をもらったホテルで、3年勤務しました。初めはフレンチレストランに配属。2年目からは、念願だったBARで働きます。
入社して分かったのですが、ホテルはその部署専属の人間を作らず、色んな部署を担当してホテル全体の業務がわかるような人材を育成していきます。とにかくBARで働きたかった僕は、BAR以外の部署は興味もありませんし、魅力も感じませんでした。
BARで勤務させてもらった2年間は、お客様、上司、同僚、あらゆる人の人間模様を観察していました。時に上司を試してみるようなこともありました。僕の行動に対して、良くないことがあれば上司は注意をしてきます。自分の求めているような指導をしてくれない上司を見て、がっかりすることもありました。僕が上司になったら、部下とはこんな風に接しない。部下が居心地よく働けるにはどうしたらいいのかと部下のいない間から考えていました。相手のことを考える訓練を、この頃からしていたのかもしれませんね。
BARから部署移動を命じられ、同時にホテルを退職することにしました。
ホテルのBARは、街のBARとは違います。特に接客に関しては、まるで違います。ホテルでは、どのお客様にも対しても平等に接します。街のBARでは、当たり前のようにマニュアルなどはなく、お客様の気持ちに合わせた接客をします。街のBARに、街のBARの接客をしたいと惹かれていきました。
第5章 下北沢へは行かない
ホテルを退職し、街のBARで働こうと思い、目指したのは東京・下北沢でした。日本で一番かっこいいBARが集まる場所に行こうと思いました。理由はただそれだけでした。
沖縄から岡山に戻った僕は、資金準備を始めます。岡山のBARで働きながらお金を貯めるつもりでした。働き始めたBARのオーナーは当時42歳。今の私と同い年くらいですね。30席ほどの岡山では比較的大きなBARでした。ここで働きたいと思える素敵なオーナーでした。
お客様のほとんどは、オーナーと話をしたくて来店されます。オーナーとのお喋りが価値なのです。オーナーはひたすらお喋りに花を咲かせます。その時、僕は横でひたすらお酒を作っていました。
このBARで働き、かっこいい下北沢に行く必要はなくなりました。
日本のどこいても、どのBARでもお客様に楽しんでいただける接客はできる。
これだけでなく多くのことを教わりました。唯一教わってないことがあるとすれば、オーナーからはお酒の作り方だけですね。そこは自分で一生懸命、勉強しました。
第6章 独立は突然やってくる
オーナーの下で働き始めて約6年。独立するのタイミングがやってきます。独立・開業はいつかの目標としてありましたが、具体的な計画はありませんでした。
ある日の何気ないオーナーとの会話から、独立しようと勘が働きました。オーナーの言動には、思いやりや気遣いがあります。何気ない優しさにみな心が安らぎます。オーナーが話す言葉に、伝えたい気持ちが汲み取れるようになって時、「そろそろ独立しよう」と感じました。
とは言えども、開業にはお金がかかります。突然やってきた独立・開業するには残念ながら貯金が足りません。ここから計画を立て始めます。
退職する時期を決めました。
開店する場所を決めました。
銀行などに伺いお金の段取りをしていきました。
夜はBARで働きながらでしたから、約半年は嵐のように目まぐるしい生活でしたね。
第7章 BARの名前は、コントワール
BARの名前は「コントワール」と名付けました。フランス語で「カウンター」という意味です。
お客様に「ゆっくり過ごしてほしい」と思い、名前にも気を付けました。「ダ」とか「ザ」とか濁点が入る字は、男らしくてかっこいいけど、優しい感じがしません。
こんな細かいことをあれこれと考えました。店名から優しくありたい、僕には店名から接客が始まっている感覚です。
カウンターで過ごす時間。ゆっくりとした心地の良い時間を提供したいという思いで名付けました。
第8章 僕のBARタイム
バーテンダーとしてのこだわりがあります。
僕はコントワールの営業が終わるまで、刺激の強い食べものやコーヒーは摂りません。営業時間前も同様です。バーテンダーはお酒を作るのが仕事です。微妙な味を正確に判断できなくなってしまっては美味しいお酒はお出しできません。同じようにお酒もいただきません。お客様から勧めていただくこともありますが。
閉店後、一人でお酒を少しだけ飲みます。
お酒に詳しいバーテンダーが何を飲むのか気になりますよね。
「キリンラガービール」を飲みます。
僕は学生時代から歴史が好きで、坂本龍馬も好きです。日本のビール業界の夜明けは、明治の初期だと言われています。キリンビールのロゴマーク「麒麟(きりん)」は空想の生き物だと言われていますが、ドラゴンに馬のような4本足が付いています。本当なのかは知りませんが、龍に馬、坂本龍馬に由来すると聞いたことがあり好きになりました。
第9章 価値観が変わる出会い
ある方から野外イベントに出店しないかと声をかけてもらいました。
お店でしかバーテンダーをやったことがなかったので、大きなチャレンジとなりました。これまでの「当たり前」を壊してもらう貴重な体験となりました。声をかけてくれた方は、今でも尊敬する経営者です。
経営者って言うと、お金の稼げる人というイメージがありましたが、単にお金を稼ぐという価値観で行動していません。「おもしろいことをすりゃぁ、ええ」と自分自身がおもしろがってできることに取り組むことを大切にしています。目から鱗が落ちる思いがしました。とてもシンプルなことなんですが、今でも大切にしています。
第10章 売り上げ以上の
満月の夜は特別です。夜空を見上げてしまいます。強い光に照らされて、野外で過ごす時間は格別です。
「満月BAR」は、岡山市街の中心部にある西川緑道公園で開かれます。喧騒の中にある木々と流れる川。お酒を片手に過ごす時間は、きっと楽しいに違いないと直感が働きました。
「満月BAR」は土曜日に開催です。売り上げのことを考えれば、出店できません。バー・コントワールは、多くのお客様がお越しくださる土曜日を閉店します。イベントに出店でそれ以上の売り上げをあげることはまず無理です。
でも、「満月BAR」に出店します。売り上げ以上のものがありました。ここでしかお会いできない方がたくさんいらっしゃいました。
バー・コントワールのお客様になってくれるわけではありませんが、満月BARでの出店は貴重なものとなりました。売り上げのことを考えることもありますが、年に数回の土曜日を満月BARに使ってもいいじゃないかと開き直っています。
BARは街中にあるもの。そんな当たり前を壊してくれたのが、中山間地域で開かれる「山村bar」。山に囲まれ、明かりの少ない村に出張します。古民家をお借りして、一夜限りのBARの開店です。これまでに美作市、久米南町、吉備中央町など15カ所ほど伺わせていただきました。
古民家のご近所さんが来てくれます。おばあさんとか、普段はBARに行かない人たちが物珍しさに集まってきます。村では当たり前の風景が、この時だけは非日常のBAR空間に変わります。
イベント中も楽しいのですが、終了後の時間は格別です。お客様も主催者も一緒に、ご飯を食べてお酒を飲みます。そのままゴロっと横になって寝てしまうのですが、この時間が心地いいのです。立場を超えて共に楽しいイベントとなります。ここも僕にとっては、売り上げを超えたかけがえのない時間です。
第11章 長島愛生園、清志さんの出会い
長島愛生園をご存知でしょうか。
ハンセン病は感染する恐れがあるとして、患者さんを島に隔離しました。つい20年ほど前までの話です。瀬戸内に浮かぶ、穏やかで静かな青い海の広がる長島。ここには療養所があり、生涯をここで過ごす人もいました。
長島でイベント出店させてもらったことがあります。そのとき、洋画家・清志初男さんと出会います。清志さんは、長島愛生園で暮らし石仏画を描かれていました。15歳のときにハンセン病を発症し、20歳で長島にやってきます。世の中から隔離されるという側面から、長島を悲観的にとらえる入所者さんも多かったと思います。清志さんは悲観的になることはなく、「長島でなら好きな絵が描ける」とおっしゃっていたそうです。85歳で個展を開くなど、93歳で他界されるまで精力的に活動していらっしゃいました。好きなことをやり続けられる強さに圧倒されたことを覚えています。
岡山に住んでいても、ハンセン病や長島のことを知る機会はほとんどありませんでした。ないのであれば作ろうと思いたちました。長島愛生園のソーシャルワーカーや学芸員にお越しいただき、大学生向けではありますが、お話を伺う時間を作りました。「コントワール風・長島の話」と題して開いています。
バー・コントワールには、清志さんの描かれた「猫」も飾らせていただいております。猫を目にした方と長島の接点が生まれるかもしれないとそっと置かせてもらっています。
第12章 笑顔の下にあるモヤモヤ
長島との出会いが、僕の視野を広げてくれました。
2017年から、児童養護施設に伺うようになります。ピザの移動販売をする友人と一緒に僕は、ノンアルコールカクテルを作るワークショップをします。
言うまでもありませんが、相手は子どもたち。
BARに来る年齢でもなければ、お金を払えるわけでもない。
やっぱり売り上げなどを考えるとこれない場所。
いつものように、よかった、楽しかっただけではない、違和感がありました。何なのかはわかりませんが、言葉にならないモヤモヤした気持ちがありました。
帰り際に「マスター、次はいつ来てくれるの?」と子どもに声をかけてもらいました。行くきっかけをもらえたので、あれからずっと通っています。
児童養護施設には、何らかの理由で親と暮らせない子どもが共同生活をしています。普段は楽しそうな笑顔を見せてくれますが、心の中にはいつも何かを抱えているのではないでしょうか。
何度も通っていると、口には出さないちょっとした気持ちの変化や躊躇(ちゅうちょ)に気付くようになりました。バーテンダーだからこそ、「接客のプロ」として養った少しの変化を見逃さないで、子どもと接することができるのではないだろうかと考え始めました。
新型コロナウイルスの感染が広がった2020年以降は、子どもの人数を20人から5人して継続しています。僕自身も、50歳くらいまでは続けたいですね。それ以上になると、15歳の子どもの感性に気付けなくなるような気がします。自分の感覚が鈍るまでは通い続けたいですね。
——人生グラフを作っていただきましたが、途中からずっと0地点。上りも下がりもしていませんが、これってどういうことですか?
もちろん、うまくいかないこともあります。後で取り返せば、それはマイナスではなくプラスになることも多いです。僕の中では、ずっと一緒で、無理をしないこと。頑張らないわけではなく、自分のペースで続けていくことを大切にしています。
(取材・執筆:えびす、編集:森分 志学)
例えば、中山間地域へ行って、古民家を借りて開かれる1日限定のバーイベント「山村BAR」であったり、西川緑道公園で満月の夜などに開かれる「満月BAR」。ここ数年はBARでもなく、児童養護施設にも行かせてもらうようになりました。