国際協力と地域おこしにチャレンジする・亀鷹皓平さん

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この記事では、倉敷市真備地区の地域おこし協力隊として化粧品の販売や復興ブランド立ち上げを行い、国際協力のNPOとして紛争地のギャングの更生などを行っている亀鷹 皓平(かめたかこうへい)さんの生き方に触れていきます。

 

【人生の履歴】

第1章 小学生、少林寺拳法を始める

僕、小学校1・2年のときは、体調の関係で運動できなかったんですよ。で、小学3年生になってやっと運動できるようになったときに、格闘好きな親父が「ちょっと皓平と一緒に格闘技始めたいわ」って言うので、半ば強制的に少林寺拳法を始めさせられたのがきっかけでした。

大学の時に中四国で1位になって、今も現役で続けています。

 

第2章 英単語からはじまる勉強への目覚め

中学生のときは、わりとヤンチャしてました。(授業に出た回数の方がもちろん多いけど)学校に行かずに他の中学校の奴らと遊びに行ったりとか。勉強は嫌いでした。

 

――勉強は小学校の時から嫌いでしたか?

テストの点数はそんなに悪くなかった気がするけど、椅子に座ってなにかするのがあんま好きじゃなくて。

 

高校に入学しても結構遊んでたんですけど、高校2年の時に、不良グループにも属しながらも勉強できる英語好きな奴がいて。

で、ちょっと話したんですけど、「of」っていう前置詞の中に「belong to=所属する」っていう意味があるんだよって聞いて。「o」と「f」が並んでいるだけなのに、そんな意味があるのか!って驚いて、そこから英語にハマって。どんどんもっと知りたいなって。そしたら自ずと点数上がっていって。

それから勉強していったら、自分が勉強した分がそのまま結果として出てくるのが楽しい。イコール、自分との戦いだなと感じて、勉強に目覚めました。

 

第3章 国際協力への関心と大学進学

少し話は戻りますが、国際協力関係の原点は中学2年のとき。現代社会の授業で、開発途上国の写真が載っていて、最初は「何だこの汚い奴らって」思って、家に帰ってテレビつけたら、たまたま映ったNHKで教科書で見た写真と同じような映像が流れていて。

そのまま少林寺の道場へ行きました。実は少林寺拳法には、戦後復興でリーダーを育成する目的もあって、「人は支え合っていかないといけないよ」「人を導いていかないといけないよ」みたいな話があるんです。僕はそれを真剣に聞いてて、なんで同じ人間なのに生まれる場所も違うことで、こんな格差があるのかと感じたんですね。でも、中2のことなんで忘れてたんです。

 

それから、高校生のときに大学に行く目的を聞かれて、家に帰って考えていた時に、部屋の端っこに紐でくくられた中学校の教科書が目に入って。そのとき、中2のときのことをたまたま思い出したんですよ。で、正直そのときはそんな強い思いがあったわけではないんですけど、とりあえずこれにしようと、道場で「僕は世界の理不尽をなくします!」みたいな訳の分からんことを言って(笑)

「大学に行く目的があるなら行け」って言うので、大学に行ったんです。大学は、試験に受かった山口の大学に進学しました。

 

第4章 初めての海外渡航

大学1年のときは、大学特有の新歓とか遊ぶことに自分が流されてしまって。

大学2年のときに、何しに来たっけなって振り返って。ふと、就活で忙しくしていた少林寺拳法部の先輩たちを見ると、自分が興味のある資格じゃなくて、就活に有利な資格をとったり、行ける企業の中から行きたい企業を選んで就職して、結局「自分がしたいことがなかった」って3年で会社を辞める。それってどうなのかなって思ったのがきっかけで。

 

自分はそんなふうになりたくないって思ったところから大学行く理由を再度思い返して。仲間と話すなかで海外行ったことないって言われたので、「じゃあ行こうか」って行ったのがきっかけですね。20歳の時に初海外。

 

第5章 国際会議に参加して

渡航から帰って来た2011年、東日本大震災があってボランティア志向の学生たちが集う中で、海外ボランティア界隈の仲間と話していたら、周りから面白いねって言われて。「もっと色んな人たちに伝えたらいいんじゃない?」って言われて、学生団体を立ち上げました。

 

知り合いの東京の学生がJICAとつながっていて、東京アフリカ開発会議の開催にあたってユースの意見を集めてほしいという話がたまたま僕に振ってきて。それで中四国ブロックをまとめるため、中四国事務局長として国際会議に参加しました。そのプロジェクトのゴールが安倍首相(当時)への政策提言書の提出だったので、現地で閣僚級会合を聞くこともできました。

 

――国際会議で印象的だったエピソードは何かありますか?

 

めちゃくちゃ多いですけど、世界銀行や外務省といった国際機関や行政機関、それらを結ぶNGOと大使、この3つのアクターがいる中で、そのパワーバランスが一番印象的でした。

現場のことをよく知っているNGOや大使が色々と意見をあげるんですけど、最終的には、(現場から離れた)クーラーに当たりながらしゃべってる人たちの意見が可決される。ただ、それが悪いっていう感じは正直なかったんですよね。同じ国際協力や社会問題を解決していこうと思っている人たちにも関わらず、立場が変わるとこんなに意見が食い違うのかと。僕は現地派だったので、これは誰しもが思うことだと思います。

 

だったら、国連に入ってみて、なんでそういう思考や考え方を植え付けられるのかを体験してみたいと思って。国連に入りたいと思うきっかけでもありました。

 

第6章 国連入職を目指すも

国際会議から帰ってきて、とりあえず就職っていう選択はありませんでした。もっと国際協力の分野について知りたいと思ったから、大学院の受験しようと思ったんですけど、受験期を過ぎていたんですよね、忘れてて(笑)

だから、大学を卒業して岡山に戻って、大学院の授業費を稼ぐために倉敷のイオンで働いてたんです、フリーターで。でも結局、大学院の受験に失敗して、その後青年海外協力隊を受けたんですが、要件の面で折り合わずこれも失敗。

 

さてどうしようかなと思った時に、叔父が勤めているベアリングの部品メーカーの会社に来るかと言われて。そこに行けば、工場実習した後にアメリカに営業として行けるかもと言うので、その間にあっちで大学院受験してマスターの資格を取って、社会人経験を2年すれば国連に行ける。であれば行かせてもらおうと、就職…だったんですけど、なんとそのタイミングで子どもができまして。

 

もちろん、アメリカへ行くのは無くなりました。ただ、大切なのはやっぱり原点で。国連に行くのが目的なのかというと、それは違っていて、自分が何がしたいのかは、子どもが好きで、子ども兵の社会復帰に自分は貢献したい。そう考えると、国連行かなくても他の形があるなと思って、もう一回探してみようと気持ち切り替えました。あと、自分の子どもを授かることができたので、しっかり子どもを育てていこうとも思いました。

 

第7章 東京の友人とNPO法人を共同設立

結局、会社には就職して、東京で営業としてひたすら働いていました。ベアリングすらよく知らない状態でも、任されたものだったらやりたいって決めていたので。

ただ、どうしても自分の夢の子ども兵の社会復帰ができないかなと思った時に、たまたま大学時代の友人・永井陽右に会いました。彼とは、大学の時に、全国プロジェクトでたまたま会ってて、それ以来でした。彼から「東京いるんだったらちょっと話そうや」と連絡があって、来年の4月に自分の学生団体をNPO法人化しようとしていて、もしよかったら一緒に設立してくれないかという話をされたんです。自分の子ども兵の社会復帰も、そこで達成できるのであればやろうと思い、NPO法人アクセプト・インターナショナルを24歳のときに共同設立しました。即決でしたね。

 

 

――メーカーの仕事は続けながらですか?

 

そうですね。どうにかして時間作ろうと思って。仕事終わった後にオンラインで参加とか、時間確保してましたね。

 

第8章 真備で地域おこし協力隊、竹水の化粧品と復興ブランド

28歳の時に地域おこし協力隊で岡山に帰ってきて、真備に住みました。その理由は、西日本豪雨。真備は地元でもないし、よく知っている場所でもないですけど、海外で経験してきたことが国内でも生かせるんじゃないのかなって考えて、会社を辞めました。

 

――地域おこし協力隊ではどんなことを?

 

最初はもう、真備町ぐるぐる回って現場把握。地域住民に被災当初のことも聞きましたけど、それよりも今後どういう町にしていきたいのかを聞きました。見方を変えたら、全部無くなってゼロベースになったので、「自分たちがこういう町にしていきたい」を掲げていかないといけないからこそ、どういう町にしたいのか、魅力は何なのかというのを聞き回っていました。

 

そこから2つのことを見えてきました。

まず商工会の役員さんに挨拶に行った時に、竹水ってものがあることを知って。ネットで調べても、ヒットする件数は多くなく、競合は少なそう。だったら、竹水って面白いんじゃないか、それ商品化しましょうと、協力隊に入った1か月後に起業が決定しました。

だけど、竹水の化粧品は2008年に真備で既に作られたんですよ。当時は、7人の真備の経営者が資本金を出し合って、8年ぐらい続けたんですが、結局失敗しました。聞いたところ、完全に戦略ミスでした。2008年の段階で、50代の女性をターゲットにインターネット通販していました。ちょっと最先端行き過ぎてましたね(笑)

 

その時からは状況も変わってるし、その前例をもとにリバイバル商品として出すのはアリだなと、当時の経営者の皆さんに「もう一回一緒に手をつないで歩んでくれませんか」って話をしたらOKが出ました。それがまずひとつです。

 

 

――なるほどー。もうひとつは?

 

商工会青年部の人たちに、被災当初困ったことなどを聞いてときに出たエピソードです。twitterで誤情報が流れて、とあるコンビニに支援物資がめちゃくちゃ集まったらしくて。皆さんが真備のために送ったものがコンビニに届いて、コンビニ側は邪魔だから全部処分したんです。あまりにも無駄で、人の善意が他人の迷惑になっていて。

 

それは、SNSの書き込んだ人が誰かという犯人探しではなくて、受け入れ先と提供元が明確になってない問題として受け取りました。災害が起きたとき、受け入れ体制をとれないところも少なくないので、そこを明確にしておけば、こうした事態は少なくなっていくはず。

1つのシンボルみたいなものを作って、「うちは復興ブランドに加盟しているから支援物資が集まりますよ」みたいな企業がどんどん増えていけば、有事の際に、そこに支援物資を送ることによって、うまく配分してくれるようになるのではないかと。現場のことを一番知ってるのは現場の人なので。それを全国の企業に展開していきたいと思って、復興ブランドを立ち上げました。

 

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